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漂流している感覚

 漂流している感覚が好きだ。たとえば、大阪から千葉に住居を移したばかりの頃、その状態にあった。
 その町のスーパーマーケットの場所さえ把握できていなかった僕は、他人からどこに住んでいるのかと問われると、えっと、などと言い淀みながら遠慮がちに「千葉に住んでいます」と答えた。
 はじめての土地を歩くのはいつだって新鮮で、道端で市民とすれ違うだけでも、ちょっとした探検、あるいは開拓をしているようで胸が躍った。すれ違う人々に思いを巡らせるのも一興だった。この人はどのくらいこの土地に住んでいるのか。この土地に何を思うのだろうか——。根本的に僕は、他人の人生に興味があるのかもしれない。
 あれから数ヶ月が経ち、住居の在処を聞かれた時に「千葉です」と答えられる程度には、土地が自分に馴染んだ。
 8月も終わりを迎え、夏の終焉を感じる時期になった。季節柄、随所から「夏休み」の感想めいた声が聞こえてくる。関西を旅した入社同期、海が綺麗な沖縄を満喫したという旧友、あるいはヨーロッパを巡った知人もいた。
 僕はというと、8月の上旬に1週間程度の休暇を取得して、故郷の愛知県に帰省した。数年越しの旧友らと再会したり、名古屋支店に勤務する学生時代の友人と近況を報告しあったりした。いわば、ごく慎ましく「夏休み」なる甘美な時間を消費してしまった自覚がある。
 旅は「漂流」に身を置ける大切なシーンである。既存の状態を脱して未知の土地を踏み締め、その土地の随所に思いを馳せる。今になって、嗚呼、旅をしておけばよかったと呟く、夏の終わりの僕である。
 職業や属性のワッペンを付された人生は、どこまでも、とめどなく続く。だからこそ、時に日常を脱して「漂流」する時間が贅沢に、大切に感じられるのかもしれない。


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