社会人2ヶ月目に思うこと
社会人になり2ヶ月が過ぎた。いま思う、とりとめのないことについて、備忘録のようなものとして書き残しておきたい。
社会人になったら、ページをめくるように見える景色が一変すると思っていた。けれど、実際にはそんなドラスティックな変化は起こらなくて、これまで紡いできた日常が、昨日も、今日も、そしてきっと明日も淡々と流れてゆく。大学生だった頃、フランス人のペンフレンドから「日本人は働きすぎよ。どうかあなたは仕事に人生を捧げるような人間にはならないでね」という趣旨の手紙をもらった。僕は彼女の意見に同意して、当たり前じゃないか、というようなお返事を返した記憶がある。僕らは、労働者である前に生活者である。自分の時間を充実させるために働いているのに、労働それ自体が生きる目的になってしまっては、自己目的化も甚だしい。
ここまで書いて擱筆したいところではあるが、そうはいかない。文章は「でも、」と続くのだから。でも、本当に自分の考え方に誤りはないだろうか。電車の整備士が車輌を点検するように、あるいは飛行機の整備士が機体の隅々に気を配るように、僕も忙しなく流れてゆく時間の中でたちどまり、自分の人生観を点検する。
僕の就いている職業は慣習的に激務が許容されていて、みなし残業時間の設定が50時間を上回る部署も散見される。残業時間が50時間と聞いただけでも驚く方もおられるだろうが、実際には、恒常的に残業時間が80時間〜100時間にありながら、労働基準法や労務セクションの基準に抵触しないように勤怠表を過小に「調整して」いる従業員もいる。こういう実情は、必ずしも僕の職場に限ったことではないのだろう。社会人は、大変だ。
ある動物が社会で生き抜くために、強者の文化に自ら順応していく現象のことを自己家畜化という。過労死ライン近傍で懸命に働いているのに、その事実を記録に残すと会社に迷惑がかかってしまう。そうして勤怠表を自ら過小に修正する態度もまた、自己家畜化の端緒といえるのかもしれない。過小に申請すればその分、給料は減る。自我を押し殺し、家畜化する当人にも同情するが、そうした実態が慣例化しているコミュニティにも強い違和感を覚える。僕らは労働者であれど、家畜ではない。労働時間の申請は厳密に行われるべきだし、労働者は実労働時間に対応する対価を確かに受け取らなければならない。
精神科医の熊代亨は著書『人間はどこまで家畜か』で、自己家畜化の概念を紹介した上で、人間も自己家畜化しながら生きていて、それと同時に、人間はそれを上回るスピードで進化する「文化」に引きずられながらも生きていることを指摘する。たとえば、高齢世代よりも若者世代の未来の方が明るいという考え方(文化)がある。その視座から財政の議論をはじめると、高齢者の医療費(延命治療を含む)に対する予算はほどほどにして、若者の教育にお金を回そうという結論に着地する。しかし、それは健全といえるのか。軽んじられて良い命なぞ、決してないはずなのに。
熊代は同書をこう結ぶ。「(他者を黙示的に調教しようとする)生権力に飼い慣らされるばかりの未来があって良いとは私には思えません。そのためにも声をあげましょう。文化や環境のためではなく、自分自身のために。私たちの血潮に宿っている、社会契約や資本主義や個人主義では説明しきれない側面のために」。
思うに、人間はどこまでも自由な生きものであって、同時にどこまでも不自由な生き物なのかもしれない。束縛からの解放は、きっと自身の不自由さを自覚することからはじまるのだと思う。盲目的に自身の現状を甘受するのは賢明とはいえない。僕は、人間の「不自由さ」に自覚的でありながら、他方に在る自由を拡張する術を考え、生きていきたい。
自分が、自分であり続けられるために。
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