心の本質

褒められること。--- どんな人でも(本当に、私たちの周りの何処の誰でも)、誰かから褒められることに飢え渇いている。
ましてや、神によって褒められる、という事は、
そして、その際、その神が実際に生きて働いておられる事に無数の圧倒的な根拠が在るならば。(「根拠がある」と感じるだけの錯覚ではなく、本当に根拠が在るのなら?)

考える事、特に、自分の倫理的な態度について、証拠に基づいて忍耐強く考え続ける事、この能力は一体どこから与えられるのか? 自分の本性から来るのかどうか、考えてみれば分かる。 私の本性は怠け者ではないか。自分を正当化するために嘘をつくではないか。
 これらの(自分に不利な)事実を認められるのは何故か? 神の愛が私の外部から来て、私を清めてくれる、と聖書は言う。これが洗脳なら、逆の事を信じる(「自分達には神など無く、自分が感じる自分しかいないのだ」と自分に言い聞かせている人達の根拠は何なにか?また、そういう考えをもって、一体どんな理性的な安全を得ているのか? 自分達こそ、恐るべきカルト宗教の根源的な嘘を模倣していることに盲目だとういうことに気づいていない。)

聖書は2000年に渡って、改ざんされないように厳重に保存されてきた。産業革命前に印刷機が発明されるまで、聖書は手書きによるコピーにコピーを重ねてきたが、その管理の重要さは、コピーの間違えが極めて限定的であることが発見されている。

もう一回、先に述べたことを繰り返そう。
 自分の心が、(自分に不利な)倫理的な事実を避けずに認めることが出来るのは何故か? 神の愛が私の外部から来て、私を清めてくれる、と聖書は言う。これを「洗脳」と言って馬鹿にする人達がいるなら、彼らは、逆の事を信じる(「自分達には神など無く、自分が感じる自分しかいないのだ」と自分に言い聞かせている)どんな根拠を持っているのか? 単に、そう感じれいるだけではないか? また、そういう考えに固執することによって、一体どんな「理性的な安心・安全」を得ている、と主張するのか? 彼等こそ、恐るべきカルト宗教の根源的な虚構を模倣していることに気づいていない。 

他の人の目の中の「ちり」を取ろうとおせっかいをやく前に、自分の目の中の「丸太」を取った方が得策だ。

自分の心や意識と言ったものを、すべての物事の存在意義(なぜ存在しているのか)という根本から一度も考えようとしない盲目で怠け者の私達が、どうやって、自分の目の中に「丸太」があって盲目であることを知るのか?

 自分の心を映す「鏡」は何か? 多くの人々にとって、自分の心を映す「鏡」とは、他人の自分に対する反応を何となく自分の心で捉えている「尺度」ではないか?とぼんやり感じられているだろう。全然考えることさえ面倒くさい、という人もいるだろう。
 また、他の人達は、「それは心理学や脳科学に属する分野で、自分は心理学や脳科学を知り尽くしているのに、何と原始的で非科学的な考察だろうか」とバカにするだろう。

 どちらも、「心の本質は、キリストという人格の「鏡」に映し出される」という事に対する反証にはなっていないのだ。

 私は、ブレイズ・パスカルの随想録(パンセ)や、C.S.ルイス、そして今の存命で活動的なジョン・レノックスなどの「科学的」で「理性的」なキリスト教の推奨者たちの本を読む時、心理学や脳科学の本が到底掘り起こすことが出来ない真実に直面する。 神が人知を超えている、という事を否定すると、悪魔によって心がやられることに無防備になる。(悪魔も、神と同様に人知を超えてはいるが、すべての創造神の下の被造物として制限されている。)

ところで、神だの悪魔だの、こういう言葉を出すこと自体、原始的で馬鹿げている、という人達がいる。近代の物質主義的な「科学っぽい」感覚こそ、皮相的な「人間観」を捏造しているという事実に気づかない。

「科学っぽい」感覚ではなくて、本当に科学の哲学に直面する人達は、物事の理由や証拠を考える際に、2つの別々の問いが在ることに気づいている。科学の「プロセス」についての質問と「その意味」についての質問は、別々なのに、混同していることに気づいていないのだ。
 一つの問は、科学的なプロセスについて(例えば、お湯が沸くのは、H2Oという分子にエネルギーが与えられて沸騰するからだ)、もう一つの問いは、その意味や目的について(例えば、お湯が沸くのは、お湯を沸かした人がお茶を飲みたいと意図したからだ)である。

 この宇宙には、科学者が探索したいことが満ち溢れている。理論物理学が解き明かしつつある宇宙の起源の複雑さについて、また、遺伝子工学者が解き明かしつつある遺伝子の複雑さについて、前の時代の人達が如何に無知であったことだろう!
 これらの複雑さが存在する「意味・目的」は何だろうか?という2番目の問いについて、プロセスだけを解明している科学者は全くの素人だが、聖書に鏡に映してみると、恐ろしい事実が浮かび上がる。ーーー人間の無知に対する考え方が、「科学的・理性的」なのだ。人間として意義ある人間に成長するために、どうしても直面すべき質問が、ここに在る。

つづく、、、。


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