日本の教育における社畜量産の実態
日本では9年間の義務教育期間があるが、大体の日本人が高卒以上で、概ね12年間は学校という機関に身を置くことになる。
その12年間で我々が学んできた事の多くを占めるのは一体何だろう?
時間で言えば勉学となるが、ではその勉学で培った物を今の生活でどれほど活用出来てるだろう?
おそらく1割に満たないレベルの方々がほとんどであろう。
上下関係の構築を12年かけて行う日本の義務教育
学校生活において、古より重んじられてきたこと、それは恐らく上下関係であろう。
開成のような偏差値の高い生徒が通う高校は別としても、学校での生活から社会人になるに当たって、最も学校でのノウハウが活きるもの、それは上下関係を円滑に進めるためのノウハウであるに違いない。
小学生になりたての頃は恐らくそこまで意識しないが、高学年や中学生になると、嫌でも目上を敬えという強制力が場を支配する。高校までの12年間で我々が学ぶことの大半は恐らくそこだろう。
社会人になること=我慢すること
ではその上下関係が最も如実に現れるのは、学校生活の主にどの時間であるか。それは部活動や生徒会などの、学校という大きな機関の中にある小さなコミュニティの中で培われる。
上の立場の人間というのが絶対的に存在し、能力の無い者は淘汰される場所である。
これは正に日本の企業にも当てはまる構図で、主に上下関係は年功序列で決まる。
中には突出した能力で年齢の差をはね除ける者もいるが、極めて少数派である。
つまりは、上の意見が尊重され、下の意見は淘汰され、結局何年経っても企業の構図は変わらず、昔ながらのスタイルを貫く。
この構図で最も苦労するのは、上下関係の中間に位置する人間だ。上でもあり下でもある立場で、最も精神的に混乱を起こしやすい。下の者が口達者であったり、上に気に入られるような性格の持ち主ならば、中間にいる者は自分だけが仲間外れにされたような感覚になり、多くの場合、このタイミングでその企業あるいは人生すらドロップアウトする。
この中間にいる時の忍耐に打ち勝てば、上の立場にいる権利を与えられるが、その権利はそんな努力を重ねてまで勝ち得たい物なのか。甚だ疑問だ。それこそ社畜であると言える。
学問で得ることに重点を
ではなぜ、学校生活においては小さな部分である部活で培った物が、企業で働くことに最も効果的に働くのか、ここに疑問を持つと、それ以外のもっと長い時間をかけて強いられる、勉学に重点を置く方が、極めて効率的であると考えられるのだ。
学問はただ良い大学に行くための糧ではない。高校まででも、教科書、授業から得る知識で、淘汰されない立場で社会人になれるのだ。
よく、「勉強なんかしたって将来の役には立たない」と言う若者がいるが、この時点でその若者は、将来=社畜になる目線で物事を見ている。
社畜になりたいならどうぞ勝手になってください。おそらく勉学は必要ないでしょう。
僕は経済学部で大学に入学し、自由科目では経営も学んだ。そこで知った流通のシステムには、企業が成り立つための条件に上下関係は存在しない。
必要なのは商品や商材を利益を生むように売ること、売り方を考えること。
ここには別に熟練した技術なんてものは絶対的存在ではなく、近道に過ぎず、新たな道を閉ざし、伸びずただ下火になっていく企業を作る糧にはなっても、新進気鋭のスタイルにはならない。
もちろん熟練の技術が必要な場所だってある。
ただそれは企業ではない。
技術職では恐らく長年の経験が多くを占めるが、企業がそれを真似する必要はなく、また、長く保たれている企業の長く保たれている理由もそこにはなく、時代の流れにそって何かを変えているからで、その何かが重要なのだ。
自分のやりたいことを
培うべきは勉学であり、それを教える方向に義務教育というものを持っていかないと、日本は永遠に「おつかれさまの国」であり続けてしまう。
労働力だけが取り柄の人間を量産する教育ではなく、専門的能力を培う教育に改変できる時代はまだ遠いかもしれない。
近年はYoutubeでも、Quizknockを筆頭に、勉強が楽しいということを教える動画も配信されている。
楽しくなきゃ飲み込めないのなら、楽しくすればいい。
それが今後の日本の教育の課題だろう。
また、今すでに社会人として生きる人々も、これからまだ働き方を改革できる。
僕も元々は社会人、サラリーマンとして生きていた人間だ。
僕だって社畜だった。
でもそれを変えたのは、大学までに習ったことだけではなく、社畜になっても、このままじゃ不味いと思い続け、ノウハウを学んできたからだ。
だから、皆様に言いたい。
「とりあえず、仕事辞めてみないか?」と。
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