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覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(1)

著者 二宮俊博


はじめに

 伊勢津藩の儒者津阪東陽は、文化11年(1814)8月、侍講として仕える第10代藩主藤堂高兌たかさわに扈従して出府し、翌12年5月帰国した。58歳の東陽にとっては初めての江戸行きで、子息の達(あざなは拙脩、通称は貫之進)を伴っての客遊であった。わずか10か月足らずの短い滞在ではあったものの、いわゆる竹馬の友でかつて昌平黌に学び今は桑名藩儒となっている平井澹所と30数年ぶりに再会し、かねてより敬慕する赤穂義士や新井白石の墓を展ずる一方、江戸詩壇の耆宿たる市河寛斎はもとより、その門下の大窪詩仏・菊池五山・柏木如亭ら詩界に新しい潮流を生み出して広く世に知られていた江湖詩社の同人と交流する機会を得、大田南畝や亀田鵬斎といった今をときめく名だたる文人や儒者とも知り合った。いずれもその当時の藝文の世界を代表する錚々たる面々である。さらには、藩命で出府していた菅茶山との思いがけない出会いもあった。しかしながら、その間、国元で留守をまもる妻が10月16日に急逝したとの報に接する悲しみにも襲われた。江湖詩社の同人や南畝・鵬斎さらには茶山との交際が見られるのが概ね文化12年になってからであるのは、おそらくそのためであったろう。
 かかる東陽の江戸での交友については、安永・天明期の京都でのそれと同様、すでに津坂治男氏の『津坂東陽伝』(桜楓社、昭和63年)および『生誕 250年津坂東陽の生涯』(竹林館、平成19年)に言及されているところではあるが、本稿では、前稿「覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ―安永・天明の京都―」に引き続き国立国会図書館蔵の写本『東陽先生詩文集』(以下、『東陽先生文集』を『文集』、『東陽先生詩鈔』を『詩鈔』と略記)を繙き、関係する詩文を読み解くことによって、より具体的に見て行くことにしたい。
 なお、前稿と同じく本文中に取り上げた人物の略伝や生卒年については、近藤春雄『日本漢文学大事典』(明治書院、昭和60年)、市古貞次ほか編『国書人名辞典』(岩波書店、平成3年~11年刊)や長澤規矩也監修・長澤孝三編『改訂増補漢文学者総覧』(汲古書院、平成23年)を参照した。また各項目ごとに參考にした文献を挙げたが、汲古書院刊の『詩集日本漢詩』『詞華集日本漢詩』に収録されている関連する詩文集は、これを逐一明記しなかったものの、それらに附された富士川英郎・佐野正巳氏の解題も参考になった。それから、このたび一般には入手困難な詩誌「雅友」に掲載された
今関天彭の江戸期の漢詩人についての評伝が揖斐高氏によってまとめられ、『江戸詩人評伝集1・2』(平凡社東洋文庫、平成27年)として刊行されたのも、 ありがたいことであった。語釈を施す上で、岩波書店刊の『江戸詩人選集』全10巻(平成2年~5年)や『江戸漢詩選』全5巻(平成7、 8年)から教えられる点が多かったことも、ここに附記しておく。


展墓の詩―赤穂義士・新井白石・梅若丸

 かつて京都に遊学した際、伊藤仁斎(名は維貞、字は源佐。寛永4年[1627]~宝永2年[1705])・東涯(名は長胤、字は源蔵。寛文10年[1670]~元文元年[1736])父子の墓を展じたごとく、江戸に赴く機会を得た東陽が公務の間に訪ねたのは、敬慕する赤穂義士の眠る泉岳寺であり私淑する新井白石の墓であった。

 赤穂義士

 元禄14年(1701)3月14日、江戸城は松の廊下で勅使饗応役の赤穂藩主浅野長矩が高家吉良義央への刃傷に及び、浅野は即日切腹、藩は断絶、吉良はお咎めなしの沙汰が下った。翌15年12月15日未明、大石良雄ら赤穂の旧臣による吉良邸討ち入り事件が起こり、その翌年2月、四十六士は切腹を命じられた。彼らの行為や処罰をめぐって、儒学者間で賛否の論が闘わされ、大きな問題となったことは、 よく知られていよう。大学頭の林鳳岡(名は信篤、字は直民。正保元年[1644]~享保17年[1732])は「復讐論」を著わして義挙としてこれを讃え、加賀藩儒室鳩巣(名は直清。万治元年[1658]~享保19年[1734])は『赤穂義人録』をまとめた。その一方で、佐藤直方(号は剛斎。慶安3年[1650]~享保4年[1719])や荻生徂徠(名は双松、字は茂卿。寛文6年[1666]~享保13年[1728])・太宰春台(名は純、字は徳夫。寛文10年[1680]~延享4年[1747])のごとく批判的立場を執る儒者も多かったのである。
 このように儒者の間で争論があり評価が定まらなかったせいか、赤穂事件について登場人物の名を変え足利の世に時代設定して脚色された浄瑠璃や歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』(浄瑠璃のそれは寛延元年[1748]に大坂竹本座で初演、歌舞伎は翌2年江戸の森田座・市村座・中村座で演じられた)が士庶の間もてはやされていたのとはかなり事情が異なって、漢詩において、詠史の作で赤穂義士を取り上げたり、泉岳寺に墓を展じたりした詩は、東陽の当時においてさほど多くの例をみないのではないかと思われる。
 もっとも管見では、その嚆矢というべき詩として伊藤東涯に大石らの没後12年目にあたる正徳5年(1715)作の「義士行」【資料篇①】があるものの、その後は熊本藩儒の秋山玉山(名は定政、字は子羽。元禄15年[1702]~宝暦13年[1763])に「泉岳寺」と題する五絶(宝暦4年[1754]刊『玉山先生集』巻五)があるほかは、めぼしい作は見あたらないようである。
 なお餘談ながら、玉山は「秋風 海樹を吹き、蕭瑟せうしつとして波瀾を起こす。上に田横が墓有り、ひとへに月色をして寒からしむ」と詠じているが、そもそも赤穂義士を秦漢の際の斉王で劉邦に臣従することを恥じて自決した田横やその一党五百人に擬えること自体に牽強附会の気味があるのは避けられない(田横のことは、『史記』田儋列伝にみえる)。その点でいえば同じく田横の故事を用いても、後年、広瀬旭荘 (名は謙、字は吉甫。 文化4年[1807]~文久3年[1863])が七絶「義人録を読む」詩(安政3年[1856]刊『梅墩詩鈔四篇』巻一)において四十七士を「身を殺して仁を成し」たと高く評価し、それに比べて「田横没後奇策無し、一死鴻毛五百人」と詠んでいるのは、無理のない巧みな故事の使い方であろう。
 展墓や詠史の作が意外に少ないことに関連して、東陽より一世代あとになる大坂の篠崎小竹(名は金吾、字は承弼。天明元年[1781]~嘉永4年[1851])が「諸儒の義人評を読む」と題する七絶(嘉永元年[1848]刊『嘉永二十五家絶句』巻三)に、

  大石精忠絶古今  大石の精忠 古今に絶す
  豈思聚訟在儒林  に思はんや聚訟の儒林に在らんとは
  輸他院本傳天下  輸す他の院本の天下に伝はり
  感發人間忠義心  人間じんかん忠義の心を感発するに
◯精忠 私心のない純粋な忠義(『宋史』岳飛伝)。◯絶古今 古今に比べるものがない。◯聚訟 多数が是非を言い争って定まらぬこと。◯輸他 この二字で負ける意。〈他〉は、接尾辞。但し江戸明治期には「他の…に輸す」と訓ずる。◯院本 金元時代、妓院で演じられた芝居の脚本(明・陶宗儀『輟耕録』巻二十五)。ここでは浄瑠璃や歌舞伎をいう。◯人間 世間。

と詠じ、広島藩儒で頼春水に学んだ坂井虎山(名は華、字は公実。寛政10年[1798]~嘉永3年[1850])が、 五七雑言古詩「四十七士を咏ず」(嘉永2年[1849]刊『摂西六家詩鈔』巻六)において、

  若使無茲事、臣節何由立  の事無からしめば、臣節何にりて
               か立たん
  若常有此事、終將無王法」 し常に此の事有らば、つひまさに王法無か
               らんとす」
  王法不可廃、臣節不可已  王法は廃す可からず、臣節はむ可からず
  茫茫天地古今間      茫茫たる天地古今の間
  茲事獨許赤城士      茲の事独り許す赤城の士
◯臣節 臣下としての忠節。六朝宋・鮑照「出自薊北門行」(『文選』巻二十八) に「時危うくして臣節を見る」と。◯王法 国家の法律。◯茫茫 遠く果てしないさま。◯赤城 赤穂を中国風にいう。

と論じているのが参考になろう。ちなみに、虎山には「泉岳寺」と題する七絶もある。
 なお、ついでながら、赤穂の旧大石邸に植えられている良雄遺愛の桜樹を詠じた詩をまとめたものに、安政6年(1859)刊の河原寛編・土井聱牙校『忠芬義芳詩巻』上下2冊があるが、そこには収載されているうち、早い時期に属するのは巌垣龍渓の「大石氏の故居を」で、小竹や虎山の作もみえるものの、ほとんどは更にそれより下の年代の詩人の作で、江馬細香や大沼沈山・森春濤の詩も採録されている。
 ところで、東陽について言えば、その立場は明瞭であった。いつ作られたか定かではないが、弱年の作とおぼしき詩に「人の赤穂義士の事を譚〈談〉ずるを聞くに、太宰徳夫の論を挙ぐ。余ことごとく之をくじき、遂にの什を賦す」と題した五言古詩(『詩鈔』巻一)がある。太宰徳夫は、先に言及した太宰春台のことで、「赤穂四十六士論」がある。

  豈敢讐公法、惆悵辭城行  に敢へて公法に讎せんや、 惆悵ちうちやうして城
               を辞して行く
  尅骨舊君怨、慷慨泣血盟  骨にきざむ旧君の怨、慷慨して泣きて血盟す
  義知泰山重、命從鴻毛輕  義は泰山の重きを知り、命は鴻毛の軽きに
               従ふ
  酒色時晦跡、苦衷豈勝情  酒色 時に跡をくらませ、苦衷豈に情に
               んや
  抜萃精忠士、要束計初成  抜萃す精忠の士、要束計初めて成る
  衷甲乘深夜、劍鳴氣崢嶸  衷甲 深夜に乗じ、 剣鳴 気崢嶸そうくわうたり
  直拙狡兎窟、攻擊亂從横  ただちに狡兎の窟を拙とし、攻撃乱るること
               従横たり
  潜匿豈得遁、戮來祭墳塋  潜匿するも豈にのがるるを得んや、戮し来り
               て墳塋ふんえいを祭る
  惟是殺朝官、干戈動都城  だ是れ朝官を殺し、干戈 都城を動かす
  嫌重先君過、俾官不失刑  先君のあやまちを重ぬるを嫌ひ、官をして刑を
               失せしめず
  束身自歸罪、從容伏劍聲  身を束ねて自ら罪に帰し、従容として剣声
               に伏す
  義烈輝青史、誰不仰忠貞  義烈は青史を輝かし、誰か忠貞を仰がざら
               ん
  懦夫堪興起、擊節肝膽傾  懦夫も興起するに堪へ、節を撃ちて肝胆傾
               く
  噫嘻太宰子、白面一書生  噫嘻ああ 太宰子、白面の一書生
  筆端妄論事、偏見硜硜  筆端みだりに事を論じ、偏見はなは硜硜けいけいたり
  徒供大方笑、雄辯君莫驚  いたづらに大方の笑ひに供す、雄弁君驚くこと
               なか
*忒は、忒の誤字。
◯公法 幕府の法。◯惆悵 傷み悲しむさま。畳韻語。◯辞城 赤穂城に別れを告げる。いわゆる城明け渡し。◯剋骨 〈剋〉は、刻と音通。尅は剋の異体字。◯泰山・鴻毛 前漢・司馬遷「任少卿に報ずる書」(『文選』巻四十一)に「もとより一死有り、或いは太山より重く、或いは鴻毛より軽し」と。〈太山〉は、泰山に同じ。◯酒色云々 大石良雄の京での遊興をいう。◯抜萃 多くの中から抜き出す。◯要束 約定。◯衷甲 衣の下に鎖帷子かたびらを着込むこと。『左氏伝』襄公27年に見え、西晋 ・ 杜預の注に「よろひ衣中に在り」と。◯崢嶸 凡常ならず旺盛なさま。畳韻語。北宋・蘇軾の七律「劉景文に贈らるるに和す」詩に「豪気崢嶸老いて除せず」と。◯狡兎窟 ウサギの巣穴。ここでは(巧妙に防御示した)吉良邸を指す。『戦国策』斉策四に「狡兎三窟有り、僅かに死を免るるのみ」と。◯朝官 ここでは、高家の意。◯干戈 たて(干)とほこ(戈)。◯都城 江戸を指す。◯失刑 刑罰の適用が正しく行われないこと。『国語』晋語三に「刑を失し政を乱せば威あらず」とあり、 韋昭の注に「罪有りて殺さざるを刑を失すと為す」と。◯束身 自らを縛る。帰順の意を示す。◯帰罪 自首する。◯青史 歴史書。古代、竹簡(青竹を火であぶり、油抜きしてから札にしたもの)に文字を書いたことによる。◯懦夫 いくじのない男。『孟子』万章下に「伯夷の風を聞く者は頑夫も廉に、懦夫も志を立つる有り」と。◯撃節 節操を励ます。晋・袁宏「三国名臣序賛」(『文選』巻四十七)に「後世は節を撃ち、懦夫は気を増す」と。◯肝膽傾 まごころを傾ける。◯太宰子 春台のこと。◯白面一書生 書物ばかり読んで世事に疎く見識の乏しい書生。『宋書』沈慶之伝に「陛下、今、国を伐たんと欲す。しかるに白面の書生輩と之を謀る。事何ぞすこと有らんや」と。東陽の『薈瓉録』巻上に「白面書生トハ、 年少ナル学者ヲ称ス。然ドモ面美シキ義ニハアラズ。ナマメキタル意ヲ含ンデ言フナリ。故ニ慢侮ノ辞ニ用ユ。ナマ白ケテヌルケタル者ノフガヒナク柔儒ナル義ナリ」云々と。◯硜硜 がちがちの石頭。『論語』子路篇に「言へば必ず信、行へば必ず果、然たる小人なるかな」と。◯大方笑〈大方〉は、見識ある人。『荘子』秋水篇に「吾れ長く大方の家に笑はれん」と。

 また彦根藩儒の野村東皐(名は公台、 字は子賤。享保2年[1717]~天明4年[1784])が延享2年(1745)に著した「大石良雄復君讎論」で否定的評価を下しているのに対して、これに反駁したこともあった。「野子賤の復讐論を論ず」(『文集』巻四)がそれである【資料編②】。
 さらに『薈瓉録』巻下には「三宅尚斎江戸ニ下リシハ土州侯ニ招カレテ賓師タリケルガ、頭巾気ノ僻論ヲ著シテ赤穂ノ義士ヲ毀リケレバ大ニ邸中ノ士ニ疏マレ、遂ニ用ヰラル〃コト能ハズシテ已ミケリ。サレド晩節前非ヲ悟リテ、更ニ論ヲ著シテ左袒セリ。其文黙識録ニ載セタリ。佐藤直方ハ遂ニ改メズ、始終偏見ヲ執シテ赤穂ノ士ヲ不義トセリ。此翁ト太宰徳夫ハ名教ノ罪人ト謂フベシ」と記している。
 されば江戸に出府する機会を得た東陽にとって、高輪の泉岳寺はどうしても訪れたい場所であったにちがいない。重陽節を過ぎてから、 当寺に詣でている。五古「泉岳寺四十六士の墓」(『詩鈔』巻一)に云う、

  忠憤徹骨髓、義烈泣鬼神  忠憤は骨髄に徹し、義烈は鬼神を泣かしむ
  拔萃百鍊剛、四十有六人  拔萃す百錬剛、四十有六人
  慷慨倶瀝血、危機幾逡巡  慷慨 ともに血を瀝し、危機 幾たびか逡巡
               す
  計定膽如斗、劍氣夜衝雲  計定まり 膽 斗の如く、剣気 夜 雲を
               
  不畏彊禦勢、鐡椎直排門  彊禦の勢を畏れず、鉄椎 ただちに門を排す
  狼狽第中士、嚴冬躶跣寒  狼狽す第中の士、厳冬 躶跣寒し
  室空仇驚逃、餘煖尚在裀  室空しく仇驚き逃ぐるも、餘煖しとね
               在り
  捜索出柴房、認得舊刀痕  捜索して柴房より出だすに、認め得たり
               旧刀痕
  捧首往祭墓、束身自歸官  首を捧げて往きて墓を祭り、身をつかねて
               自ら官に帰す
  従容齊就死、天慘白日昏  従容としてひとしく死に就き、天慘として
               白日くら
  蕭寺堕淚碑、香火吊遺墳  蕭寺の堕涙碑、香火 遺墳を弔ふ
  英雄骨已朽、生氣凛如新  英雄 骨已に朽つるも、生気凛として新
               たなるが如し
◯抜萃 多くの中から抜き出す。◯百錬剛 鍛え抜いたわざもの。西晋・劉琨「重ねて盧諶に贈る」詩(『文選』巻二十五)に「何ぞをもはん百錬剛、 化して指にめぐるの柔と為らんとは」と。◯瀝血 血書、血判して(仇を報ずる)誓を立てる。『呉越春秋』勾踐入臣外伝に「瀝血の仇を滅せず、懐毒の怨みを絶たず」と。◯逡巡 ためらう。畳韻語。◯膽如斗 『三国志』蜀志・姜維伝「維の妻子皆誅に伏す」の裴松之の注に引く『世語』に「維死する時かるるに、膽は斗の如く大なり」と。『蒙求』巻中の標題に「姜維膽斗」がある。ちなみに、『薈瓉録』巻下に「大如斗ト云フハ斗量ホドノ丸サナリ。(中略)形丸クシテ頗ル大ナル物ヲバ仰山ニ譬ヘテ言ヘルナル。古ノ斗量ハ圜ナリ。吾今ノ一升ホドニ当ル。タトへバ此方ノ鄙諺ニ五升餅ノ大サナド云フガ如ク古者口実ノ詞ナリ」と。◯彊禦 悪強く抵抗する者。『詩経』大雅「蒸民」に「矜寡を侮らず、彊禦を畏れず」と。◯排門 門をおしひらく。◯第中 屋敷内。◯躶跣 〈躶〉は、裸と同じ。〈跣〉は、はだし。◯柴房 炭置き小屋。◯束身 自らを縛る。帰順の意を示す。◯帰官 〈帰〉は、自首する。◯従容 落ち着いたさま。畳韻語。『近思録』巻十、政事類に「感慨して身を殺すことはやすく、従容として義に就くことはかたし」と。◯天慘 空が暗くなる。三国魏・王粲「登楼の賦」(『文選』巻十一)に「天慘慘として色無し」と。◯白日昏 盛唐・高適の五古「李員外が哥舒大夫の九曲を破るを賀するの作に同ず」詩に「鬼哭して黄埃暮れ、天愁ひて白日昏し」と。◯蕭寺 仏寺。南朝梁の武帝(蕭衍)が仏教を好み、寺を創建した際、蕭字を大書して掲げさせたという。『書言故事』巻四、釈教類に、この語を挙げる。◯堕淚碑 もとは、西晋時代、襄陽太守であった羊祜の徳を慕って建てられた碑で、これを望む者が皆涙を流したことから、杜預がかく名づけた(『晋書』羊祜伝)。◯骨已朽 杜甫の五律「喬口に入る」詩に「賈生骨は已に朽ちたり、悽惻として長沙に近づく」と。◯生気 盛んな意気、気概。『世説新語』品藻篇に庾龢ゆわ(道季)の言として「廉頗・藺相如は、千載上の死人といへども、凛凛としてつねに生気有り」と。

 七絶でも「泉岳寺四十六士の墓」詩(『詩鈔』巻九)があり、

  擲身義不共讎存  身をなげうって義 讎と共に存せず
  何必人人國士恩  何ぞ人人に国士の恩を必せん
  荒冢纍纍堕淚碣  荒冢累累たり堕涙の碣
  空埋四十六忠魂  空しく埋む四十六忠魂
◯人人 すべての人々。◯国士恩 李白の五古「宣城の趙太守悅に贈る」詩に「憶ふ南陽に在りし時、始めて承く国士の恩」と。◯荒冡 (手入れされず)雑草の生い茂った墓。◯累累 相連なるさま。西晋・潘岳「懐旧の賦」(『文選』巻十六)に「墳塁塁として壟に接す」と。〈累累〉は、塁塁と同じ。◯碣 いしぶみ。◯忠魂 忠義のために死んだ者の魂。

といい、さらに五絶「泉岳寺に義士の墓を吊す」詩(『詩鈔』巻六)には、

  忠誠埋不滅、生氣凛千年  忠誠 埋むるも滅せず、生気 千年に凛た
               り
  這箇尋常寺、大名天下傳  這箇の尋常の寺、大名 天下に伝ふ
◯生気 盛んな意気、気概。前掲「泉岳寺四十六士の墓」詩の語釈参照。◯這箇 この。近世以来の俗語。◯尋常 ありきたり。双声語。

と詠じる。
 なお、ついでに言えば、この泉岳寺に後出の亀田鵬斎が「赤穂四十七義士の碑」を建立したのは、文政3年(1820)5月14日のことである。またこれより先、鵬斎は文化12年に刊行された鴻濛陳人重訳『海外奇談』、これは『仮名手本忠臣蔵』を長崎の唐通詞周文次右衛門が翻訳した『忠臣蔵演義』をもとに訳し直されたものであるが、それに序を附している。
 また討ち入りに加わったものの、藝州広島の浅野本家に使いすることとなり(後掲「逸事碑」)、切腹を免れた寺坂吉衛門信行は、後年旗本の山内氏に仕え、延享4年(1747)83歳で歿し、かつて寄寓したことのある麻布の曹渓寺に葬られた。伊藤仁斎の四男で久留米藩儒の竹里(名は長準、字は平蔵。元禄5年[1692]~宝暦6年[1756])に「寺坂吉衛門墓碣銘」があり、竹里の門人内田鵜洲(名は叔、字は叔明。元文元年[1736]~寛政8年[1796])にその「逸事碑」があるが(いずれも五弓雪窓『事実文編』巻三十一に収録)、東陽はこの吉衛門が眠る寺にも足を運んでいる。七絶「寺阪信行の墓」(『詩鈔』巻九)に云う、

  大節相將義士林  大節相おこなふ義士の林
  厠來賤卒切忠心  まじへ来る賤卒 忠心切なり
  人生一飯猶須報  人生 一飯すらすべからく報ゆべし
  何問主恩深不深  何ぞ問はん主恩の深きや深からずやを
◯大節 『論語』泰伯篇に「大節に臨んで奪ふ可からざるなり」と。◯賤卒 足軽の身分であることをいう。 ◯一飯 一度の食事。『史記』范雎蔡沢列伝に「(范雎は)一飯の徳にも必ず償ひ、がいの怨にも必ず報ゆ」と。

 題下の注に「麻阜の曹渓寺に在り。碑を読んで感じて作る。余かつて論ずらく豫譲は義士に非ず、 いたづらに名高きを為す者なり。つ市道(商売人のやりかた)を以てつかふる所に待す、いづくんぞの国士るに在らんや。賤丈夫(卑劣な男)とふ可きのみと。れをして信行の美譚を聞かしむれば、其れ必ず愧死せん矣」と。
 豫譲のことは、司馬遷の『史記』刺客列伝に見える。春秋末期、晋の人で、もと范氏や中行氏に仕えたが認められず、智伯に仕えて国士として遇された。智伯が趙襄子を攻めて失敗して殺され、彼を怨むことはなはだしい趙襄子によってその頭骸骨は漆で塗られ飲器にされた。豫譲は趙襄子の命をねらったものの、果たせず、最初は義士として放免されたが、体にうるしを塗り炭を呑んで姿や声を変え、橋の下で待ち伏せして失敗した。さすがに二度めは趙襄子も見逃すわけにはゆかなかったが、死を覚悟した豫譲の、趙襄子の上衣をもらいうけ、これを突き刺して仇討ちの志を示したいという願いを聞き届けたという。人口に膾炙する「士はおのれを知る者のために死し、女は己をよろこぶ者の為にかたちづくる」という言葉は、豫譲が智伯のために報復を誓ったときのものである。
 ちなみに、この豫譲については、 盛唐・李瀚『蒙求』の標題に「豫譲呑炭」とみえ、晩唐・胡曽が七絶形式で歴史の舞台となった地を詠じた詠史詩の一首に「豫譲橋」(『胡曽詩抄』)があり、南宋・朱熹の『小学』内篇・稽古第四・明倫にもその故事が採られているのを始めとして、後世の評価はおおむね高く、宋明の評論は明の凌稚隆輯校・李光縉増補『史記評林』にその一端を見ることができるが、東陽は豫譲の行為を主家の恩の軽重を比較計量して恩返しをはかるもので、商賈に類するものとみなし厳しい批判の目を向けていた。なお、東陽の自注に見える〈市道〉は、商売人のやり方。『史記』廉頗藺相如伝に見える語。戦国趙の名将、廉頗のもとにいた食客が将軍を罷免されると立ち去り、再び将軍に重用されると戻ってきたのに腹を立てた廉頗に対して、食客の一人がいった言葉に「れ天下、市道を以て交はる。君に勢ひ有る、我則ち君に従ふ。君勢ひ無ければ則ち去る。此れと其の理なり。何の怨むこと有らんや」と。また〈賤丈夫〉は、利益を壟断しようとする卑劣な男(『孟子』公孫丑下)の意。
 こうしたドライな発想は主従関係に利害打算・損得勘定を持ち込むものとして東陽はこれを憎み、豫譲の行為のなかにも、それと同質の臭気を鋭敏に感じ取ったのであろう。『詩鈔』巻九に「豫譲は義士に非ず、余の軽薄を憎み、文を著し之を論ず。ほ繫ぐに詩を以てす二首」と題する七絶がある。この詩は、『夜航余話』巻下の「年ふるき狐狸の化《ばけ》たるは、死しても容易に本態をあらはさずとなん。かの晋の豫譲がごときは、天下後世を誑らし惑はす、振古の大妖物なりけり。其心術のさもしくはしたなき、まことに軽薄不義の士なり。始は利禄に節をうしなひ、終は名聞に身をもがき、大に虚名を盗みて、千載を欺き得たり」云々と非難した箇所にも附されており、新日本古典文学大系『日本詩史 五山堂詩話』(岩波書店、平成3年)に収められている揖斐高氏の『夜航余話』校注を参照されたい。
 なお、豫譲については後出の大窪詩仏に天保7年(1836)70歳の作たる七古「大石良雄の肖像に題す」詩(天保9年刊『詩聖堂 詩集三編』巻十)があり、「豫譲の為すところ真に児戯、つ之を青史に載す」と述べていることを附記しておく。

※赤穂四十七士に関する議論については、 鍋田晶山『赤穂義人纂書』(日本シェル出版、昭和50、1年)および石井紫郎校注『日本思想大系27近世武家思想』(岩波書店、昭和49年)参照。その思想史的意味に関しては田原嗣郎『赤穂四十六士論―幕藩制の精神構造』(吉川弘文館、 昭和53年)に詳しい。さらに『仮名手本忠臣蔵』については、服部幸雄編『仮名手本忠臣蔵を読む』(吉川弘文館、平成20年)参照。また『海外奇談』については、杉村英治「海外奇談―漢訳仮名手本忠臣蔵」(『亀田鵬斎の世界』所収。三樹書房、昭和60年)および奥村佳代子「『海外奇談』の語句の来歴と翻訳者」(「関西大学東西学術研究所紀要」48、平成26年)参照。

 新井白石(明暦3年[1657]~享保10年[1725])

 名は璵あるいは君美、字は済美。白石は、その号。31歳のとき木下順庵(元和7年[1621]~元禄11年[1698])の推挙で甲府城主徳川綱豊(後の六代将軍家宣)に仕え、53歳にして幕府に登用され、将軍家宣のもとで数々の建策を行った。正徳六年(享保元年)吉宗が八代将軍に襲位すると罷免され、第一線から退いた。
 題下に「浅草里の本願寺中に在り」と自注を附した五律「白石先生の墓にてんす」詩(『詩鈔』巻三)がある。当時、白石の墓は東本願寺派の浅草報恩寺境内に移転していた同派の高徳寺にあった。

  經世斯文志、雄才孰敢當  経世 斯文の志、雄才 たれか敢へて当らん
  平生憂國夢、毎夜告天香  平生 国を憂ふる夢、毎夜 天に告ぐる香
  詩律風霜氣、功名日月光  詩律は風霜の気、功名は日月の光
  書空暮年恨、奠罷且彷徨  空に書す暮年の恨、奠しをはりてしばし彷徨す
◯経世 世を治める。◯斯文 この学問の意で(『論語』子罕篇)、儒学のこと。◯雄才 傑出した才能。◯孰敢当 誰も匹敵する者がいない。晩唐・周曇「詠史詩」前漢門・薛公に「黥布兵を称すたれか敢へて当らん」と。◯告天香 香を焚いて天帝に報告する。『後漢書』光武帝紀上に「燔燎して天に告ぐ」とあり、初唐・李賢の注に「天高くして達す可からず。故に柴を燔して以て之を祭る、高煙上に通ずるをこひねがふなり」と。◯風霜気 詩律が厳格であることをいう。『西京雑記』巻上の「淮南王安、鴻烈二十篇を著はす。(中略)自ら云ふ、字句風霜をさしはさむと」から出た表現。宋・恵洪の七古「南台に游ぶに和す」詩(『石門文字禅』巻七)に「曽侯逸韻有り、詩律風霜を挾む」と。◯日月光 輝かしいことをいう。◯書空 東晋の殷浩が中軍将軍・楊州刺史を罷免されて信安(浙江省)に蟄居したとき、「終日つねに空に書いて字をす」日がな一日、虚空に何やら字を書いていた。それは「咄咄怪事」(ちぇっちぇっ、けったいな)という四文字であったという(『世説新語』黜免篇)。◯奠 (墓前に)酒食を供えて祭る。◯暮年 老年。◯彷徨 (その場を立ち去りがたく)あたりを行ったり来たりするさま。畳韻語。

 さらに五絶「白石先生の墓に謁す」と題する作(『詩鈔』巻六)には、白石を「吾が夫子」と称して私淑の意を示し、次のように詠じている。

  勳業吾夫子、經世煥文章  勳業 吾が夫子、経世 文章くわんたり
  蕭寺拜遺碣、為拈一瓣香  蕭寺 遺碣を拝す、ためつまむ一弁香
◯煥文章 〈煥〉は、輝く。晩唐・杜牧の五排「華清宮三十韻」詩(『樊川文集』巻二)に「星斗文章煥たり」と。◯蕭寺 仏寺。◯遺碣 墓石〈碣〉は、いしぶみ。◯拈一弁香 一くゆりの香をつまんで焚く。敬慕の念を示す。北宋・米芾べいふつ『画史』唐画に「蘇軾子瞻墨竹を作る。(中略)運思清抜、文同与可に出ず、自らふならく文のために一弁香を拈む」と。

 白石については、その著『折たく柴の記』を読んで、その感想を詠じた五律「白石先生の焼柴志を読む」詩(『詩鈔』巻三)もある。これは、文化4年(1807)末に津に召還されて以降の作であろう。
  忠賢王佐業、明主特嚴師  忠賢 王佐の業、明主 特に師を厳にす
  尚德殊恩重、崇文庶績煕  徳をたふとんで殊恩重く、文をたふとんで庶績ひろ
               れり
  風雲千歳日、禮樂百年時  風雲 千歳の日、礼楽 百年の時
  柴火咽烟夕、哭來神鬼悲  柴火 烟にむせぶ夕、哭し来りて神鬼悲しむ
◯王佐業 ここでは将軍を補佐する職務。◯厳師 師を尊敬する。『礼記』学記篇に「凡そ学の道は、師を厳にするを難しと為す」とあり、後漢・鄭玄の注に「厳は、尊敬なり」と。◯殊恩 (将軍からの)格別の御恩。◯庶績煕 もろもろの功績が広まる。『尚書』堯典に「まことに百工ををさめて、庶績みな煕まれり」と。その偽孔伝に「煕は、広なり」と。南宋・蔡沈『書経集伝』も同じ。但し、清朝の学者は興るの意に解する(江声『尚書集注音疏』、段玉裁『古文尚書撰異』)。◯風雲 風雲際会の意。君臣の出会いをいう。◯千歳日 千載一遇の意。杜牧「華清宮三十韻」詩の「一千年の際会」も同意。『淮南子』泰族訓に「れ治を欲するの主は世に出でず、而してともに治を興すの臣は万に一あらず。万に一あるを以て世に出でざるものを求む、れ千歳に一会せざる所以ゆゑんなり」と。◯礼楽 社会秩序を安寧にする礼と人心を和やかにする楽と。それによって天下が治まることをいう。例えば『孝経』広要道章に「風を移し俗をふるは楽より善きはし、上を安んじ民を治むるは礼より善きは莫し」と。◯百年 『漢書』叔孫通伝に「礼楽の由って起こる所は、百年徳を積みて而して後に興る可きなり」と。六代将軍家宜の治世は、江戸に幕府が開かれてからほぼ百年後。

第七句は、白石の書名の由来となった後鳥羽院の「思ひいづるをりたく柴のゆうけぶりむせぶもうれしわすれがたみに」(『新古今和歌集』巻八、哀傷歌)をふまえた表現。
 東陽が白石を高く評価したのは、その学問が経世の学であり数々の施策を企画立案したきわめて優秀な実務家であるとともに卓越した詩文の名手であったのはむろんのことながら、浪人時代に養子縁組を断り医業への転身を拒んだという彼の経歴が己れのそれと類似しているとみて何がしかの親近感を覚えたことも、あるいはその背景にあったかもしれない。そして幕政と藩政とスケールこそ違えど、そうした白石の後ろ姿を一つの目標として名君の誉れが高い藩主藤堂高兌に献可賛否、時には進言し時には諫言して、その期待に応えていったのではあるまいか。

※新井白石に関して、その生涯と事績とを平明に紹介したのが宮崎道生『人物叢書 新井白石』(吉川弘文館、平成元年)。その詩業については、今関天彭「詩人としての新井白石(上)(下)」(「雅友」第25・6号、昭和30年11・12月。『江戸詩人評伝1』に収録)、一海知義・池澤一郎『江戸漢詩選2儒者』(岩波書店、1996年)の解説参照。一海・池澤両氏には『日本漢詩人選集5新井白石』(研文出版、2001年)もある。さらに、紫陽会(石川忠久・市川桃子・詹満江・三上英司・森岡ゆかり・高芝麻子・遠藤星希・大戸温子)編著にかかる『新井白石「陶情詩集」の研究』(汲古書院、平成24年)がある。

 梅若丸

 なお、展墓の詩と言えば、謡曲「隅田川」で知られる梅若丸の墓を訪ねた作もあるので、ついでに挙げておく。『詩鈔』巻六の五絶「梅児の墓」と題する詩がそれで、題下に「隅田の木母寺に在り」と注している。これは文化12年の作。

  一抔埋玉處、翠柳冢頭低  一抔いつぽう 埋玉の処、翠柳 冢頭に
  遺恨春風暮、枝枝自向西  遺恨 春風の暮れ、枝枝自ら西に向ふ
◯一抔 一抔土の意で、墳墓をいう。抔は、一すくい。『書言故事』巻五、墳墓の条に見える。◯埋玉 埋葬。『世説新語』傷逝篇に「庾文康(庾亮)亡じ、何揚州(何充)葬に臨んで云ふ、玉樹を埋めて土中にくれば、人情をして已已たらしむ」と。『書言故事』巻五、祭奠類に、この語を挙げ、「挽詩に葬を言ひて埋玉と曰ふ」とし、『晋書』庾亮伝を引く。◯向西 どの枝も梅若丸の故郷である京の方角に向う。

 この詩に関連して、七絶「隅田川観花二首」(『詩鈔』巻九)の題下の自注に「昧爽(朝まだきころ)両国橋り舟をうかべて行く、三匝祠の前を過ぐるころほひ、旭日すなはち(ようやく)升れり矣。ここに於いて舟をててつつみに上がり、行くゆくまさに木母寺にいたらんとす。列樹路をはさみ、鬧花だうくわ(満開の桜)天をおほひ、雲洞中に入るがごとし。破暁(夜が明けて)往きて観る者は、亦た紅塵を避くればなり」と。〈三匝祠〉は、三囲みめぐり神社のこと。
 斎藤月岑の天保5、7年刊『江戸名所図会』巻七によれば、塚のまわりに柳が植えられ、3月15日には梅若丸を祀る大念仏の法会が行われ、貴賤を問わず多くの人々が参詣したという。同じく月岑の天保9年刊『東都歳事記』には「このところ養花天とて大かた曇り、又は雨降る事あり。この日(3月15日)雨ふるを、梅若が涙の雨といひならはせり」とある。それゆえ、後出の大田南畝も「墨水年々三月の望、梅児の雨泣草蒼々たり。今春日々晴景多し、羅綺花の如く野塘を歩す」(文化12年作の七絶「三月望、家を携へて重ねて墨水に遊び、花を看る二首」其二。『杏園詩集』巻五)と詠じたのである。
 ちなみに、春雨そぼふる木母寺の情景を詠じた詩として名高いのが、柏木如亭の次に挙げる七絶である。文化2年(1805)の作と推定されており、後掲の揖斐高『遊人の抒情』に詳しい評釈が載せられている。
  隔柳香羅雑沓過  柳を隔つる香羅 雑沓ざふたふとして過ぐ
  醒人來哭醉人歌  醒人は来り哭し酔人は歌ふ
  黃昏一片蘼蕪雨  黄昏一片蘼蕪びぶの雨
  偏傍王孫墓上多  ひとへに王孫墓上にひて多し
◯香羅 香しい薄絹、それをまとった女性。◯雑沓 人が多く、ごったがえすさま。雑遝と同じ。畳韻語。盛唐・杜甫の五古「麗人行」(『古文真宝』前集)に「簫管哀吟 鬼神を感ぜしめ、実に賓従雑遝す」と。◯蘼蕪 香草の名。おんなかづら。双声語。晩唐・孟遅の七絶「閑情詩」(『三体詩』巻一)に「蘼蕪も亦た是れ王孫草、春香を送りて客衣に入るるかれ」と。◯王孫 貴公子。ここでは、梅若丸を指す。前漢・劉安「招隠士」(『楚辞』巻十二、『文選』巻三十三)に「王孫遊びて帰らず、春草生じて萋萋せいせいたり」と。
 
 なお、この「木母寺」詩全体について、揖斐氏に晩唐・韋荘の七絶「春愁」詩(『聯珠詩格』巻六)の「自ら春愁有りて正に魂を断つ、堪へず芳草の王孫を思はしむるに。落花寂寂たり黄昏の雨、深院人無くして独り門に倚る」が下に敷かれているかも知れないとの指摘がある。されば菊池五山が文化5年(1808)刊の『五山堂詩話』巻二において「はなはだ晩唐の名家に類す」と評しているのは、おそらく孟遅の「閑詩」情や韋荘の「春愁」が念頭にあってのことだと思われる。


覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(10)
覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(2)

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