見出し画像

覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(10)

著者 二宮俊博

おわりに

 安永5年(1776)頃に上京して以来、天明八8年(1788)まで京都で過ごした遊学時代は東陽にとってかけがえのない第一の青春とも呼ぶべき時期であり、彼が過した十数年間は京都の詩壇もまさに活況を呈していた。経済的豊かさを背景にした自由闊達な都市の風気やそれに培われた詩人文人たちの旺盛で暢達な活動。東陽はその「寿壙誌銘」において「学ぶに常の師無し」と揚言し、ともすれば独学で一家を成したように見られやすいが、当地で結ばれた詩人や文人あるいは学者との交友が彼の詩作の技量を磨き学問形成に大きな影響を及ぼしたであろうことは、これまでに紹介してきた詩の数々からもその一斑が窺えよう。後に迎える寛政年間、伊賀上野での逆境雌伏の日々を読書に沈潜して送るなかでの精神的支えになったと思われる。そして享和を経て文化を迎えると、やがて儒者としての実力が認められて同4(1807)には津に召還され、その後、教育行政に手腕を発揮し雄飛する道筋が開けてくるようになった。
 その間、天下の文運はしだいに江戸に移っていったが、今度はその江戸で東陽は時代を代表する詩人や文人、市河寛斎・亀田鵬斎・柏木如亭・大窪天民・菊池五山や大田南畝らと出合い交流する機会に恵まれることになるのである。福山侯の命を受けて『福山志料』の編纂校訂のため出府していた菅茶山との邂逅もあった。文化11年(1814)8月から12年(1815)5月までの江戸滞在期がそれである。時に東陽、58、59歳。あしかけ2年たらずの短い期間で国元の妻が病没するという不幸に見舞われたが、詩作の面では第二の青春時代というにふさわしい活動を見せている。上記の江戸の文人たちとの交流については、これもすでに津坂治男氏の著書に言及されているところだが、東陽の詩を中心として、私なりに次回改めてこれを探ってゆきたい。


【資料編①】

 津阪東陽、五古「古学・紹述両先生の墓を拝す」(『詩鈔』巻一)
聖人不復起、斯文孰適従  聖人ふたたびは起たず、斯文いづれにか適従せん
嗟彼高頭巾、穿鑿屬懸空  ああ の高頭巾、穿鑿 懸空に属す
勃窣陷理窟、將無異端同  勃窣 理窟に陥り、た異端に同じきこと
             無からんや
夫子辭闢之、廓如大道通  夫子 辞して之をひらき、廓如として大道通ず
堂構濟其美、先業益彰隆  堂構 其の美をし、先業益ます彰隆
倶是百世師、偉哉聖門功  ともに是れ百世の師、偉なる哉 聖門の功
吾生雖後時、結髪欽遺風  吾が生 時におくると雖も、結髪より遺風をつつし
盛德固難及、文章亦可宗  盛徳はもとより及び難く、文章も亦た宗とす可し
今日小倉山、瞻拜馬鬣封  今日小倉山、瞻拜す馬鬣封
儼然神如在、橋梓鬱葱葱  儼然として神いますが如く、橋梓鬱として葱葱
             たり
景慕情彌切、對越感無窮  景慕 情弥々いよいよ切、対越 感窮まり無し
碑文三復罷、祇囘夕陽中  碑文三復して罷み、かへる夕陽の中
◯高頭巾 『薈瓚録』巻下、頭巾気の条に「高頭巾輩ハ胡元ヨリ宋人ヲ指シテイヘルナリ」と。ここは、(山崎闇斎派の)道学者を指していう。◯懸空 架空と同じ。◯勃窣云々 『世説新語』文学篇に「張憑は勃窣として理の窟を為す」と。『蒙求』巻中の標題にも「張憑理窟」と。ここでは、難渋してとんでもないこじつけに陥っているという意。◯将無異端同 異端の学問と同じではなかろうか、の意であろう。〈異端〉の語、『論語』為政篇に「異端ををさむるは、れ害あるのみ」と。◯辞闢之 批判して(邪説を)しりぞける。韓愈の「進士策問十三首」其四(『韓昌黎集』巻十四)に「夫子既に没して、聖人の道明らかならず。蓋し楊・墨といふ者有って、始めて侵して乱る。(中略)孟子辞して之を闢くときは、則ち旣に廊如たり」と。これは前漢・揚雄の『法言』吾子篇に「いにしへ楊墨路を塞ぎ、孟子辞して之を闢くこと廓如たるなり」というのに基く。〈廓如〉は、広々としたさま。◯堂構 父の後を継ぐこと。『尚書』大誥の「(ちち)の室を作るがごとき、既に法をいたす。の子乃ち肯て堂せず、いはんんや肯て構せんや」から出た語。◯済美 『左氏伝』文公十八年に「世よ其の美をし、其の名を隕さず」と。◯百世師 百代にわたる師表。『孟子』尽心上に「聖人は、百世の師なり」と。◯瞻拜 仰ぎみて拝礼する。◯馬鬣封 墳墓。『礼記』檀弓上に見える。◯神如在 『論語』八佾篇に「祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす」と。◯橋梓 仰ぎみる橋木と俯してみる梓木とをいう。それぞれ父道・子道を象徴する(『尚書大伝』梓材)。そこから転じて人の父子を称える語。『書言故事』巻一、父母類に見える。◯葱葱 あおあおと生い茂るさま。◯対越 『詩経』周頌「清廟」に「対越在天」の句が見え、旧来「ここに天に在るに対す」と訓ずるが、清・王引之は対揚の意とする。◯碑文 仁斎の碑文は、門人の北村可昌撰。東涯のそれは内大臣藤原常雅撰。寺田貞次『京都名家墳墓録』(山本文華堂、大正11年)に全文を挙げる。

 小栗明卿、五古「古学伊藤先生の墓に謁す」(『常山遺稿』巻上)
叔季諸儒學、多遠聖賢蹤  叔季 諸儒の学、多く聖賢の蹤に遠ざかる
大道漸榛蕪、鴻教誰弥縫  大道漸く榛蕪、鴻教誰か弥縫せん
先生時傑出、竭力拆蒙茸  先生時に傑出し、力をつくくして蒙茸をひら
議論亦温厚、直淂古學宗  議論も亦た温厚、直ちに古学の宗を得たり
吾生已相後、不得親徳容  吾が生 已に相後る、徳容を親しむことを得ず
嵯峨青山裏、儼然馬鬣封  嵯峨 青山の裏、儼然 馬鬣封
日暮悲風發、蕭瑟滿長松  日暮悲風発り、蕭瑟 長松に満つ
九京不可起、嗟嘆欲安從  九京起こす可らず、嗟嘆すいづくくにか従はんと
             欲す
◯叔季 末世。◯榛蕪 草木が乱雑に茂る意から、荒れ果てること。◯鴻教 偉大な教え。『文心彫龍』宗経篇に「経なる者は、恒久の至道、不刊の鴻教なり」と。◯弥縫 縫い合わせる。補い救う。『左氏伝』僖公26年に見える語。◯蒙茸 乱れた状態。畳韻語。◯嵯峨 山が高く険しい様子。畳韻語。二尊院のある嵯峨の地名も含意する。◯悲風 「古詩十九首」其十四(『文選』巻二十九)に「白楊悲風多く、蕭蕭として人を愁殺す」と。◯蕭瑟 風の音。さわさわ。双声語。◯九京 墓地。『書言故事』巻五、墳墓類に、この語を挙げ「祖宗の墓地を称して九京と曰ふ」とし、『礼記』檀弓下を引く。

【資料編②】

 五古「小栗明卿の小祥忌に墓に謁して泣きて賦す」(『詩鈔』巻一)
嗚呼吾畏友、胡為命不脩  吾が畏友、なんれぞ命ながからざる
形影虚相夢、魂魄何處求  形影虚しく相夢み、魂魄何処に求めん
德言猶在耳、更想才藝優  徳言猶ほ耳に在り、更に才藝の優なるを想ふ
傾葢稱知己、意氣便相投  傾蓋知己と称し、意気便すなはち相投ず
交久逾敬愛、情好日綢繆  交はり久しくいよいよ敬愛し、情好日びに綢繆
             たり
儒術道論説、雅興詩唱酬  儒術 道をば論説し、雅興 詩をば唱酬す
志節互砥礪、對君輒忘憂  志節互に砥礪し、君に対すればすなはち憂ひを忘る
哀哉二豎祟、百藥訖罔瘳  哀しいかな 二豎祟り、百薬つひゆること
幽明奄相隔、緬邈作昔遊  幽明たちまち相隔て、めんばくたり昔遊をせしこと
逝水人間世、光陰浹春秋  逝水 人間世、光陰 春秋めぐ
埋骨托蕭寺、宿草夜臺幽  埋骨 蕭寺に托し、宿草 夜臺幽なり
香火聊相吊、拜來淚先流  香火いささか相弔ひ、拝し来りて涙先づ流る
憶君初入京、駿譽都下周  憶ふ君初めて京に入りしとき、駿誉都下にあまね
經筵丞相府、詞翰親王樓  経筵は丞相の府、詞翰は親王の楼
青雲直堪致、豈翅出一頭  青雲ただちに致すにふ、豈にただに一頭を出す
             のみならんや
若天假之年、海内更尠儔  し天の之に年をさば、海内更にともがらすくな
             からん
已矣昆弟契、何物慰我愁  んぬるかな矣 昆弟の契、何物か我が愁を
             慰めん
雖然人既朽、言存自千秋  人既に朽つといへも、言は存す自ら千秋
 予梓遺集、剞劂適成、故云( 予、遺集を梓し、剞劂まさに成る、故に云う)
◯小祥忌 一周忌。◯傾蓋 初めて出会って、すぐに親しくなること。孔子が程子と路上で出会い、車を傘を傾けて立ち話をした故事による。『書言故事』巻三、朋友類に、この語を挙げるが、もとは『孔子家語』致思篇に見える。◯綢繆 ねんごろ。畳韻語。古くは『詩経』に見える語で、前漢・李陵の作とされる「蘇武に与ふる詩三首」其二(『文選』巻二十九)に「独りさかづきたす酒有り、子と綢繆を結ばん」と。◯二豎 病魔。春秋晋の景公が病に罹り名医を呼ぼうとしたとき、ふたりの子供(二豎子)が相談する夢をみたという。「病 膏肓に入る」の故事(『左氏伝』成公十年)。◯緬邈 遥かに遠いさま。西晋・潘岳「寡婦の賦」(『文選』巻十六)に「緬邈として長くそむく」とあり、五臣注に「緬邈は、長遠の貌」と。◯蕭寺 仏寺。梁の武帝(蕭衍)が仏教を好み、寺を創建した際、蕭字を大書して掲げさせたという。『書言故事』巻四、釈教類に、この語を挙げる。前掲『京都名家墳墓録』によれば、明卿の墓所は堀川五条の本国寺。◯宿草 一年たった草。『礼記』檀弓上に「朋友の墓は、宿草有れば哭さず焉」と。◯夜台 墳墓。◯出一頭 頭ひとつ分抜きん出る。◯経筵 経書を講ずる席。◯詞翰 詩文。〈翰〉は、筆の意。◯梓 版木。上版すること。◯剞劂 小刀で版木に彫ること。出版。

【資料編③】

 常山遺稿序
天明甲辰春正月、小栗明卿歿矣。今茲乙巳、先祥祭之辰、友人津阪君裕、上木其遺稿、問序於余。余受而閲之、翕然起曰、明卿、逸羣之氣、絶倫之才、使乙其長轡藝苑、與世之高材疾足、以為華騮緑耳者相馳逐。玉美燦然、遺風騰雲、足以逞其神駿矣。惜夫千里之稱未著、溘焉帰房星之舎也。君裕之有此舉、可不謂之真死友哉。余知愛明卿、思其人而不見。今閲是稿、則神駿之氣、爽然於巻中。嗚呼不朽者文、謂明卿為寿、不亦可乎。
天明乙巳春二月
   龍溪巌垣彦明撰
(天明甲辰春正月、小栗明卿歿しぬ。今茲乙巳、祥祭の辰に先だって、友人津阪君裕、其の遺稿を上木し、序を余に問ふ。余受けて之を閲し、きふ然として起ちて曰く、明卿、逸羣の気、絶倫の才、其れをして藝苑に長轡し、世の高材疾足にして、以て華騮緑耳と為る者と相馳逐せしめば、玉美燦然として、風を遺し雲に騰し、以て其の神駿を逞しうするに足らん矣。惜しいかな千里の称未だあらはれず、溘焉として房星の舎に帰しことを。君裕の此の挙有るは、之を真の死友とはざる可けんや。余、明卿を知愛す、其の人を思いて見ず。今、是の稿を閲すれば、則ち神駿の気、巻中に爽然たり。朽ちざる者は文、明卿寿を為すとはんも、亦た可ならずや。)
◯祥祭 死後13ヶ月めに行う祭祀。◯上木 版木に彫る。上梓。◯翕然 突然、急に。◯長轡 長い手綱を操って馬を走らせる。◯華騮・緑耳 いずれも駿馬の名。『淮南子』主術訓に「れ華騮・緑耳は一日にして千里を致す」と。◯騰雲 雲に駕す。◯溘焉 たちまち。◯房星 天馬を象徴する星。◯死友 『書言故事』巻三、朋友類にこの語を挙げ、「列士伝、羊角哀・左伯桃、死友為り」云々とあり、「古人の友と為る、時を同じうして生まれずと雖も、誓って必ず時を同じうして死せんことを願ふ、故に死友と曰ふ。亦た曰く、死に至るまで相背負せず」と注する。◯不朽者文 初唐の宋之問「楊盈川を祭る文」に「古り皆死あり、朽ちざる者は文なり」と。

是為亡友小栗明卿遺稿。明卿諱世煥、常山其號。若狭小濱人。自幼穎悟好學、手不釋巻、比至弱冠、既通六経大義、歴史諸子、渉獵幾遍。於是来游京師、廣與諸名儒周旋。學殖彌固、才識日長。名士之譽、隆〃然興矣。朝紳諸公、延請授簡、争先快覩、丞相廣幡公、特加寵眷、賓禮甚殷。既而下帷輦轂之下、諄〃然善誘人、屹有老成典刑。従遊之徒日衆矣。蓋明卿為人耿介、立志高尚、専研讀古經、以名教為己任。文藝小、固不之屑。雖然天縦之才、於詩尤富。奇題険韻、揮筆立就。警策絶、幾泣鬼神。度彼其錦心繡腸、行将為風騒一代之主。而旻天不弔、一朝罹病、不幸短命而死。時天明甲辰正月、行年僅二十二歳。嗚呼哀哉、明卿平日所知遇、不為不多、而與余特綢繆。其初来京師、依余僑居、金蘭之契、互稱知己、以故其吟稿多在余之所、廼毎一展閲之、輒愴然慼傷、淚簌〃下、未嘗不三呼天恨其不假年也。乃遂慫慂其弟公叔、令編録成巻、以壽諸梓焉。但明卿於詩、常不留稿、故今之所獲、僅三百餘首。其散逸他方者、無由珠還合浦、殊可惜耳。公叔葬次涕泣、黽勉従事、兼閲月而殺青就緒、可謂勤矣。余因為博募同好、助剞劂之費。逾年板成、傳播四方。嗟夫名湮滅而不稱、古人之所深悲焉。是舉也、雖非明卿本意乎、然明卿身既歿、而著作頼存、不與骨倶朽、猶幸也。古不言乎、詩以觀人、〃其或有以知明卿之學術志操於此乎。庶乎足慰明卿地下之霊哉。抑亦余之悲憾、可以少解焉耳。因序。
天明乙巳春正月伊勢津阪孝綽撰
(是れ亡友小栗明卿の遺稿り。明卿いみなは世煥、常山はの号。若狭小濱の人。幼きり穎悟学を好み、手巻をかず、弱冠に至るころほひ、六経の大義に通じ、歴史諸子、渉獵することほとんどあまねし。ここに於いて来たりて京師に游び、広く諸名儒と周旋す。学殖彌々いよいよ固く、才識日に長ず。名士の譽、隆隆然として興る矣。朝紳諸公、延請して簡を授け、先を争いて快覩す。丞相広幡公、特に寵眷を加へ、賓礼甚ださかんなり。既にして帷を輦轂の下に下し、諄諄然として善く人をいざない、屹として老成の典刑有り。従遊の徒日におほし矣。けだし明卿人る耿介、志を立つる高尚、専ら古経を研読し、名教を以て己が任と為す。文藝小技、もとより之をいさぎよしとせず。然りといへども天縦の才、詩に於いてもっとも富む。奇題険韻、筆をふるへばたちどころに就る。警策絶倒、ほとんど鬼神を泣かしむ。はかるに彼其の錦心繡腸、行々ゆくゆくまさに風騒一代の主と為らんとす。而して旻天弔せず、一朝病に罹り、不幸短命にして死す。時に天明甲辰正月、行年わづかに二十二歳。哀しいかな、明卿平日知遇する所、多からざると為さず、而して余と特に綢繆。其の初めて京師に来たる、余が僑居に依る。金蘭の契、互に知己と称す、故を以て其の吟稿多く余の所に在り、すなはち一たび之を展閲するごとに、すなはち愴然慼傷、涙簌々として下る、いまかつて三たび天を呼んで其の年をざるを恨まずんばあらざるなり。すなはち遂に其の弟公叔を慫慂し、編録して巻を成し、以てこれを梓に寿せしむ焉。但だ明卿詩に於ける、常に稿を留めず、故に今の獲る所、わづかに三百餘首。其の他方に散逸する者、珠合浦に還るに由無く、ことに惜しむ可きのみ。公叔葬次涕泣、黽勉事に従ひ、兼ねること閲月にして殺青緒に就く、勤めたりと謂ふ可し矣。余因って為に博く同好を募って、けつの費を助く。逾年にして板成り、四方に伝播す。ああれ名湮滅して称せられざる、古人の深く悲しむ所焉。是の挙や、明卿本意に非らずと雖も、然れども明卿身既に歿して、著作さひはひに存し、骨とともに朽ちざる、ほ幸ひなり。いにしへに言はざるや、詩以て人を観ると。人其れあるいは以て明卿が学術志操をここに知ること有らんか。こひねがはくは明卿地下の霊を慰めるに足らん。そもそも亦た余が悲憾、以て少しく解く可きのみ。因って序す。)
◯周旋 応接交際する。◯輦轂 みやこ。◯延請 招待。◯授簡 詩文を作るよう命じる。前掲「明卿を哭す」詩の語釈参照。◯争先快覩 先を争って会いたがる。◯丞相広幡公 内大臣の広幡前豊。◯詢詢然 丁寧に教えるさま。◯誘人 『論語』子罕篇に顔回の言葉として「夫子、循循然として善く人をいざなふ」と。◯典刑 典型。手本。『詩経』大雅「霊台」に「尚ほ典刑有り」と。◯耿介 節操を堅く守って世に迎合しない。戦国楚の宋玉「九弁」(『楚辞』巻六)に「ひとり耿介にして随はず、願はくは先聖の遺教を慕はん」と。◯文藝小技 杜甫の五古「華陽の柳小府におくる」詩に「文章は一小技、道に於いて未だ尊しと為さず」と。*〈技〉字、原文は〈伎〉に作るが、誤まりであろう。◯名教 儒教。◯天縦 天賦。『論語』子罕篇に子貢が孔子を評して「天縦の将聖」と。◯奇題 ふつうでは詩に詠まない題目。東陽の「夢を記す」(『文集』巻八)に「広幡相公の詩筵の如きは、もっとも奇題をもうけて才を試む」と。◯険韻 押韻するのに字数が少ないなど使いづらい韻目。◯警策 文章中の人を深く感動させる箇所(『文選』巻十七、西晋・陸機「文の賦」)。◯絶倒 はなはだ敬服する。*〈倒〉字、原文は、〈到〉に作るが誤まりであろう。◯泣鬼神 杜甫の五排「李十二白に寄す二十韻」に「詩成りて鬼神を泣かしむ」と。◯錦心繍腸 胸中にたくわえた詩文の才華。中唐の柳宗元「乞巧文」(『柳河東集』巻十)に「駢四儷六、錦心繍口」と。◯風騒 『詩経』国風と『楚辞』離騒。◯旻天不弔 天が憐れまずの意。『左氏伝』哀公十六年に見える魯の哀公が孔子を悼んだ言葉。◯不幸短命而死 孔子が愛弟子の顔回についていった言葉。『論語』雍也篇および先進篇。◯綢繆 親密なこと。畳韻語。◯金蘭契 金属のように堅く、蘭のようにかぐわしい交わり。『易経』繋辞上伝に「二人心を同じくすれば、其の利きこと金を断ち、同心の言、かぐはしきこと蘭の如し」と。『書言故事』巻三、朋友類に「金蘭契」を挙げる。◯簌々 涙がはらはらこぼれるさま。◯公叔 小栗十洲(文化8年[1811]没)のこと。◯寿諸梓 刊行して永く留める。明の王陽明『伝習録』巻下に「衆皆翻録を憚る、すなはち謀りてこれを梓に寿せしむ」と。〈梓〉は、版木。◯珠還合浦 合浦(広東省)は真珠貝の産地で年貢代わりに乱獲すると、真珠貝は隣の郡に逃げ出したが、循良な長官が治めるとまた戻って来たという(『後漢書』循吏伝、孟嘗伝)。そこから物が元の持ち主に戻ること。◯黽勉従事 『詩経』小雅「十月之交」に見える。〈黽勉〉は、努め励むさま。双声語。◯閲月 一個月。〈閲〉は、る意。◯殺青 竹の油抜きをして竹簡を作ることから、校書すること。◯就緒 とりかかる。『詩経』大雅「常武」に見える語。◯可謂勤矣 頑張ってよくやったいえよう、の意。韓愈「進学解」(『韓昌黎集』巻十二)に「先生の業、勤めたりと謂ふ可し矣」と。◯剞劂費 出版費。◯逾年 年を越える。◯名湮滅云々 『史記』伯夷伝に「名湮滅して称せられず、悲しいかな」と。◯古人 前漢の司馬遷。

※この序は、『文集』巻一に収めるものとの間にかなり異同がある。例えば、ここでは父祖の事績に触れられていないが、『文集』では、「常山其號」以下を「若狭小濱名家、鶴皐先生元愷乃其祖父也」に作る。鶴皐ついては、『日本詩選』に「小栗元愷 字は子佐、鶴皐と号す。若狭小浜の人」と。なお、向嶋成美氏に「若狭小浜の漢詩人、小栗鶴皐とその詩について」(「斯文」第118号、平成21年)がある。
 また、明卿の弟、公叔を『文集』では光胤に作るが、十洲と号し書画を善くしたこの人については、寛政三年頃の作に「懐を小栗十洲に寄す、長崎に在り」と題する七絶(『詩鈔』巻八)がある。

  京洛交游意氣親  京洛の交游意気親し
  花飛蝶駭十三春  花飛び蝶おどろく十三春
  為羇終世窮途恨  羇と為りて世を終ふ窮途の恨み
  羨尓東西南北人  羨むなんぢ東西南北の人
◯花飛蝶駭 晩春の情景。春が過ぎゆくこと。晩唐・陸亀蒙の七絶「鄴宮」(『三体詩』巻一)に「花飛び蝶駭きて人を愁えしめず」と。◯為羇終世 他鄕にさすらって生涯を終える。『左氏伝』昭公13年に見える語。◯東西南北人 気ままに各地を旅する自由人。盛唐・高適の七古「人日杜二拾遺に寄す」(『古文真宝』前集、『唐詩選』巻二)に「愧づなんぢ東西南北の人」と。もとは『礼記』檀弓上に、孔子が自らを「今、丘や東西南北の人なり」といったのに基く。官職を求めて諸国を放浪するというのが、その本来の意味。

 長崎へは画の修業のために赴いていたのであろうか。ちなみに後年、文化5年(1808)冬、柏木如亭が入洛して十洲と親交を結び、「七友歌」を贈っている。

世所稱才子者不爲不多。而奇才如明卿者、果有幾人。余未多見其比儔也。使明卿得壽考乎、海内文名必有帰焉。苗而不秀可悲夫。余恠天已寵明卿、以斯奇才、奚為不假以歳月乎。天道夢々、孰得其解。往余男秉亦頗以俊才采。潜喜吾業有託、而一朝溘焉死矣。後得明卿、余視猶秉、又潜喜吾業有所託、而天復奪明卿、其謂之何。顧余無状得天、其迷深重若斯耶。常山遺稿刻成、弟公叔請余題言、乃録之以寓懺悔之意云。
天明乙巳春正月  北海江邨綬撰
(世の才子と称する所の者は多からずと為さず。而れども奇才明卿の如き者は、果して幾人か有る。余、未だ多くは其の比儔を見ざるなり。明卿をして壽考を得しめんか、海内の文名必ずここに帰する有らん。苗にして秀でざる、悲しむ可きかな。余怪しむ天已に明卿を寵するに、の奇才を以てするに、奚為なんすれぞ仮すに歳月を以てせざるやと。天道夢々、たれれか其の解を得ん。さきに余が男秉も亦たすこぶる俊才を以て采せらる。ひそかに喜ぶ吾が業託する有るを、而れども一朝溘焉として死せり矣。後に明卿を得て、余視ることほ秉のごとく、又たひそかに喜ぶ吾が業の託する所有るを、而れども天復た明卿を奪ふ、其れ之を何とはんや。だ余、得天を状する無く、其の迷ひ深重かくごと。常山遺稿刻成り、弟公叔、余に題言を請ふ、すなはち之を録して以て懺悔の意を寓すと云ふ。)
◯比儔 同類。◯寿考 長寿(『詩経』大雅「棫樸よくぼく」)。◯苗而不秀 『論語』子罕篇に見える語。◯夢夢 はっきりしないさま。『詩経』小雅「正月」に「天を視るに夢夢たり」と。◯溘焉 にわかに。◯得天 天の助けを得ること(『左氏伝』僖公28年)。

【資料編④】

 與柚南畝(柚南畝に与ふ)
昔遊一場春夢、別來行復四年、思慕光霽徳容、未嘗不羹墻於懷也。時維夏五、溽暑駸〃逼人、不審近况作何狀、想亦左圖右書、優游自如、著述倍紛綸否。頃日人或傳足下不安其土、欲設帷於京師、僕聞之頗懷市虎之疑、審爾甚爲左計。
(昔遊は一場の春夢、別れてこのかた行ゆく復た四年、光霽徳容を思慕し、未だかつて懐に羹墻せずんばあらざるなり。時にれ夏五、溽暑駸々として人にせまる。近况何の状をすかを審らかにせず、想ふに亦た図を左にし書を右にして、優游自如、著述ます々紛綸たるや否や。頃日人或いは伝ふらく足下は其の土に安んぜず、帷を京師に設けんと欲すと、僕之を聞きすこぶる市虎の疑を懐く、まことしかりとせば甚だ左計と為す。)
◯光霽徳容 すぐれた風采。尺牘用語。◯羹墻 思慕する。『後漢書』李固伝に舜が堯を慕って「坐すれば則ち堯を墻に見、食すれば則ち羹に堯をる」ありさまであったという。◯溽暑 蒸し暑さ。古くは『礼記』月令、季夏之月に見える。◯駸々 盛んなさま。◯左図右書 左右に書物を積み上げる。◯優游自如 ゆったりのんびりと過ごすこと。◯紛綸 多いさま。◯安其土 生まれ故郷に安住する。『礼記』哀公問に「其の身をたもつこと能はざれば、土に安んずること能はず」と。◯設帷 塾を開く。◯市虎 あらぬ噂。市中にトラがいると一人二人が言っても信じる者はいないが、三人が言えば皆それを信じる(『戦国策』魏策二)。◯左計 拙策。まずい計画。

夫輦轂之下、固人文之淵藪、舌耕開肆、絳帳如雲、然其升講席者、率皆青囊之子、其餘則浮屠氏耳。此輩爲學自有専門之業、餘力染指斯文、不過略識字綴詩以装體面向上其術而已。故其學未至小成則已弁髦之、比〃皆是也。乃就其師也、亦聚散無定、或聞某先生精某書、則輒往聽其講、朝升此席、夕入彼門、一人幾師、無所底止、徒爲邯鄲之歩、卒之多岐亡羊。孺子可敎、充育英之樂者、豈可得哉。是以輕薄成風、不復知師道之可敬、入門無束脩之礼、往〃白手投謁、所謂五節謝敬、亦捐花銀三四錢耳。或有迫其期則輒颺去者、不亦甚乎。人非神仙、須仰衣食而喫著不給、何以生活哉。僕自弱冠薄遊輦下、嘗因人之勸、抗顏坐皐比、門徒輻湊、頗稱隆盛、値其講日、則盥漱未畢、而戸外之屨已盈矣。其務苦口辨析、唇焦嗌嗄、三寸欲裂、勞良甚矣。然餬口之不及、豈代耕之足云。壁立之室、困於空、動輒有夫子陳蔡之色、吁講師之業、徒自辱道耳。是以斷捲帳、不復弄嘴于茲。幸遊事王門、及爲朝紳諸公延請而得不填溝壑矣。今而思之、良以自咲也。
れ輦轂の下、もとより人文の淵藪、舌耕みせを開き、絳帳雲の如し、然れども其の講席に升る者は、おほむみな青嚢の子、其の餘は則ち浮屠氏のみ。此の輩学をすに自ら専門の業有り、餘力指を斯文に染む、ぼ字を識り詩を綴り以て体面を装ひ其の術を向上する。故に其の学未だ小成に至らずして則ちすでに之を弁髦とし、比々皆是れなり。すなはち其の師に就くや、亦た聚散定め無く、或いは某先生は某書に精しと聞けば、則ちすなはち往きて其の講を聴き、あしたに此の席に升り、ゆうべに彼の門に入る、一人にして幾師、底止する所無く、いたづらに邯鄲の歩をし、之を多岐亡羊にふ。孺子教ふ可く、育英の楽しみに充つる者、豈に得可けんや。是れ以て軽薄風を成し、復た師道の敬す可きを知らず、入門するに束脩の礼無く、往々にして白手にて投謁し、所謂いはゆる五節の謝敬、亦た花銀三四錢を捐するのみ。或いは其の期に迫れば則ちすなはち颺去する者有り、亦た甚しからずや。人は神仙に非ず、すべからく衣食を仰ぐべくして喫著給せず、何を以て生活せんや。僕は弱冠り輦下に薄遊し、かつて人の勧めに因って、抗顔して皐比に坐し、門徒輻湊し、頗る隆盛と称せらる、其の講日にへば、則ち盥漱いまをはらざるに、戸外のくつ已にてり矣。其の務めは口を苦くして辨析し、唇焦げのど嗄れ、三寸裂けんと欲し、労まことに甚し矣。然れども餬口の及ばざる、豈に代耕の云ふに足らんや。壁立の室、屨々しばしば空しきに困ず、ややもすればすなはち夫子陳蔡の色有り、ああ、講師の業、徒自いたづらに道を辱めるのみ。是れ以て遂に断じて帳を捲き、復たくちここに弄せず。幸ひに王門に遊事し、朝紳諸公の為に延請せらるるに及んで溝壑に填まざるを得ん矣。今にして之を思へば、まことに以て自らわらふなり。)
◯輦轂 みやこ。◯淵藪 集まる場所。◯絳帳 講席。私塾をいう。後漢の馬融が教授するのに「常に高堂に坐し、絳沙帳を施し、前に生徒に授け、後に女楽を列ね」たという故事(『後漢書』馬融伝)による。◯如雲 はなはだ多いことをいう(『詩経』鄭風「出其東門」)。◯青囊 薬を入れた袋の意から、医者をいう。◯浮屠 僧侶。ブッダの音訳語。◯弁髦 不要のもの(『左氏伝』昭公9年)。〈弁〉は元服に用いる冠、〈髦〉は子供の垂れ髪の意。成人すれば不要となる。◯比比 どれもみな。◯無所底止 きりがない。◯邯鄲歩 虻蜂とらず。戦国燕の寿陵の若者が趙の都邯鄲に行き、優雅な歩き方を学んだが習得せぬうちに元の歩き方を忘れ、腹ばいになって国に帰ったという(『荘子』秋水篇)。◯多岐亡羊 本来の目的を見失う。逃げた羊を分かれ道で見失う(『列子』説符篇)。◯孺子可教 この小僧見どころがある、という意(『史記』留侯世家)。◯束脩 入門して教えを乞うときの手土産(『論語』述而篇)。入門料。◯白手 手ぶらで。◯五節 人日・上巳・端午・七夕・重陽をいう。◯花銀 純銀。◯颺去 ずらかる。◯人非神仙云々 三国魏・応璩「韋仲将に答ふる書」(『藝文類聚』巻三十五
に引く)に、「人は神仙に非らず、すべからく衣食を仰ぐべし」と。◯喫著 食べ物・着る物。◯弱冠 二十歳(『礼記』曲礼上)。◯薄遊 漫遊。◯抗顔 厳めしい顔つき。◯皐比 講席。◯輻湊 四方から集まる。◯盥漱 顔を洗い(盥)、口をすすぐ。◯戸外之屨 前掲「舌耕歌」に「戸に屨満つ」と。その語釈参照。◯三寸 舌。◯屢空 『論語』先進篇に「(顔)回や其れちかきか、屢々しばしば空し」と。◯夫子陳蔡色 飢えた顔つき。孔子とその弟子が諸国放浪の途上、陳・蔡の地で迫害され、糧食を断たれた故事(『史記』孔子世家)による。◯今而思之 この言い方、韓愈「李翺に与ふる書」(『韓昌黎集』巻十六)に見える。

且夫長安物貴、居大不易、燃桂食玉、生理甚苦。於是市井之人、皆繊嗇委瑣、數米而炊、秤薪而焚、率恒茗粥塩虀、僅充腹而已。尤不可耐者、其俗脂韋、阿而少意氣、狡而多首鼠、習於文飾機巧、善爲辨佞應對、卽傭奴爨婢亦皆嫺熟、一呼再諾、周旋如舞、而視四方之人、皆以爲椎魯可咲、百虚一實、唯利是視、苟利之可射、蠶絲秋毫、無微不拆。天下之人、傳以爲口實、誠不虚也。是以人有金則嫗➌、無則不之齒。苟失路困窮、恝焉路視聽其生死、則京城雖廣、託足無所。豈非尤難居之地耶。
れ長安は物貴く、居ること大いに易からず、桂を燃やし玉を食ふ、生理甚だ苦し。ここに於いて市井の人、皆繊嗇委瑣、米を数へて炊き、薪をはかりて焚く、おほむつねに茗粥塩虀、わづかに腹を充たすもっとも耐ふ可からざる者は、其の俗脂韋、おもねりて意気少なく、狡にして首鼠多く、文飾機巧に習い、善く辨佞応対を成すこと、即ち傭奴爨婢も亦た皆嫺熟し、一たび呼べば再諾し、周旋舞ふが如し。而して四方の人を視るに、皆以て椎魯わらふ可しと為す。百虚一實、唯だ利を是れ視、いやしくも利の射す可き、蠶絲秋毫、微として拆せざるは無し。天下の人、伝へて以て口実と為す、誠に虚ならざるなり。是れ以て人の金有らば、則ちし、無ければ則ち之を歯せず。いやしくも失路困窮、恝焉として路に其の生死を視聴す。則ち京城広しと雖も、足を託するに所無し。もっとも居り難きの地に非ずや。)
◯長安云々 「舌耕歌」に「長安物貴く」云々と。その語釈参照。◯燃桂食玉 これも「舌耕歌」に「桂玉の地」と見える。その語釈参照。◯生理 生計。◯繊嗇 吝嗇。◯委瑣 やたらと細かいことに拘る。◯数米而炊 『夜航詩話』巻二に「朝野僉載に、韋荘性倹に米を数へて炊き、薪を秤りてかしぎ、一䜌少なければすなはち之を覚る」云々と。『朝野僉載』は、初唐の張鷟撰。ここに挙げるのは、『太平広記』巻一六五、吝薔に引く。東陽は、晩唐の韋荘のことと解するが、おそらく元は同姓同名の別人。『唐才子伝』巻十、韋荘の条にも挙げるのも、同様。◯茗粥塩虀、茶粥に漬物。◯脂韋 媚び諂う。◯首鼠 どっちつかず。ネズミは疑い深く巣穴から首を出したり引っこめたりすることからいう(『史記』魏其武安侯伝)。『書言故事』巻六、評論類にも挙げる。◯機巧 巧智。『荘子』天地篇に「功利機巧、必ずの人の心に忘る」と。◯辨佞 口先だけで調子を合わせる。◯傭奴爨婦 傭の下男、飯炊きの下女。◯嫺熟 習熟。◯一呼再諾 『韓詩外伝』巻五に「前に当たって意を決し一呼再諾する者は人の隷なり」と。◯唯利是視 この言い方『左氏伝』成公十三年に見える。◯利之可射 〈射〉は、追い求める。◯蚕糸秋毫 非常に細かいもの。◯無微不拆 僅かな利益でも拘らずにおれない。〈拆〉は、分別の意。◯椎魯 融通機転が利かないこと。◯嫗➌ 腰をおりまげる。◯託足無所 足を置くところがない(『世説新語』識鑒篇)。◯恝焉 まるっきり気に留めないさま。*〈恝焉路視聴其生死〉と〈則京城〉との間に脱文があるのではなかろうか、文意がうまくつながらない。

夫君子舉事、必愼終于始、世儒窘於窮途、動至墜志枉道、皆不慎始之過、前轍寔多、豈可不監哉。竊惟足下之家、中人十家之産、自奉固有贏餘、非窮猿投林之比。傳曰、鳥能擇木。况人之處其身、豈可不能擇邪。敢請三思可也。僕於足下承斷金之交久矣。苟有所懷、不敢不盡也。今聞人之所傳、憂心悄〃、不容緘黙、猥陳固陋、傾倒肝膽、臨勝悚惕之至、惟高明炳亮、幸勿以狂妄罪之、維莫之春、餘寒未艾、若時珍嗇、不悉。
れ君子の挙事、必ず終を慎むに始めにおいてす、世儒窮途にくるしめられ、ややもすれば志を墜し道をぐるに至る、皆始めを慎まざるの過ち、前轍まことに多し、かんがみざる可けん哉。ひそかをもふに足下の家、中人十家の産、自ら奉じてもとより贏餘有り、窮猿投林の比に非ず。伝に曰く、鳥能く樹を択ぶ。いはんや人の其の身を居処する、豈に択ぶ能はざる可けんや。敢へて請ふ三思して可なり。僕の足下に於ける断金の交を承ること久し矣。いやしくも懐ふ所有らば、敢へて尽くさずんばあらざるなり。今、人の伝ふる所を聞くに、憂心悄々、まさに緘黙すべからず、みだりに固陋をぶ、肝膽を傾倒して、楮に臨んでなんぞ悚惕の至りにえん、だ高明炳亮、幸ひに狂妄を以て之を罪するなかれ、くれの春、餘寒未だまず、若時珍嗇せよ、不悉。)◯挙事 物事を実行する。◯慎終于始 終りをよくしようとすれば、その初めを慎まねばならない、という意。『尚書』太甲に見える語。◯中人十家産 格別、金持ちでも貧乏でもないこと。『漢書』文帝紀の賛に「百金は、中人十家の産なり」とあり、唐・顔師古の注に「富ならず貧ならざるを謂ふ」と。◯贏餘 余裕。◯窮猿投林 東晋の李弘度(充)が仕官の口を求めて「窮猿林をはしるに、豈に木を択ぶに暇有らんや」といった言葉(世説新語』言語篇)に基づく。『書言故事』巻十二、禽獣比喩類にも、この語を挙げる。◯鳥能択木 『左氏伝』哀公十一年に孔子の言葉として「鳥は則ち木を択ぶ、木に能く鳥を択ばん」と。◯憂心悄悄 『詩経』邶風「柏舟」に見える。〈悄悄〉は、憂えるさま。◯三思 三度考える。『論語』公冶長篇に季文子が「三たび思ひて然る後に行ふ」のを聞いた孔子が「再びせば斯れ可なり」と。◯断金之交 『易経』繋辞上伝の「二人心を同じうすれば、其の利きこと金を断つ」から出た語。◯臨勝云々、〈棤〉は〈楮〉の、〈易〉は〈曷〉の誤写。書き下しは、訂正したものに拠る。釈大典の『尺牘語式』上巻の第十五結事に「臨楮曷勝懇惻之至」を、同じく下巻の書柬結語に「臨稟曷勝悚惕之至」を挙げる。◯悚惕 おそれおののく。◯高明炳亮 貴君は聡明でいらっしゃるから、の意。なお、〈高明〉の語、『尺牘語式』下巻に「称人」として、これを挙げる。◯維莫之春 『詩経』周頌「臣工」に見える表現。◯若時 この時、現在。◯珍嗇 御身ご大切に、の意。尺牘用語。◯不悉 これも尺牘用語。『尺牘語式』上巻の第十八結尾に、この語を挙げ「言ヲノベツクサヌ意」と注する。

※柚木南畝については、『日本詩選続編』の作者姓名に「柚木孟穀 字は南畝。久米と称す。江州下廹村の人。伯華の孫、仲素の姪孫」とあり『東山寿宴集』にも収録。寛政元年(1789)刊の『龍川詩鈔』には校者として、その名が見える。また、東陽に寛政3年(1791)頃の作「柚南畝に贈る」詩(『詩鈔』巻八)があり、
  昔遊如夢歳華過  昔遊夢の如く歳華過ぎ
  結客場中意氣多  結客場中 意気多し
  燕市酒酣慷慨甚  燕市酒たけなはにして慷慨甚し
  秋風擊筑和悲歌  秋風擊筑 悲歌に和す
◯歳華 歳月。◯結客場中 血気盛んな若者同士が交友を結んでたむろする盛り場。楽府題に「結客少年場行」がある。◯燕市・撃筑・悲歌 前出「春日、伯祺に寄す」の語釈参照。
と詠じている。


覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(9)
覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(1)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?