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覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ-安永・天明期の京都-(9)

著者 二宮俊博

その他の学者・文人―桃西河・菅茶山・葛子琴・木村世粛

 京には長期にわたって遊学する者や短期の研修に訪れる者、老いも若きもさまざまに地方から上ってきたが、そこでその他として、こうした学者文人のうち桃西河と菅茶山の二人を取り上げたい。それから、大坂在住の葛子琴と木村蒹葭堂についてもここで取り上げておく。


桃西河(寛延元年[1748]~文化7年[1810])

 名は世明、字は君義。西河はその号。出雲松江の人。東陽より9歳上。安永3年(1174)、京都に遊学。皆川淇園・江村北海に師事。柴野栗山にも学んだ。皆川淇園に安永6年(1777)作の「桃世明の松江に帰省するを送るの序」(『淇園文集後編』巻一)が、江村北海に七律「桃君義の郷に帰るを送る」(『北海詩鈔三編』巻三)がある。安永9年(1780)江戸に出て、林鳳潭に入門。享和元年(1801)家督を継いで明教館教授となった。京都遊学時に交友があったことは、次に挙げる三つの詩から窺うことができる。
 まず七律「懐を雲州の桃文学に寄す」(『詩鈔』巻四)

  客舎京城接巷樓  客舎京城 巷楼に接し
  風流勝事毎來攜  風流勝事 つねに来り携ふ
  西園雅集春零落  西園の雅集 春 零落し
  南浦離愁晩惨悽  南浦の離愁 晩に惨悽たり
  歳月空於忙裏過  歳月空しく忙裏に過ぎ
  關山毎向夢中迷  関山つねに夢中に迷ふ
  襟期望斷終天恨  襟期望断す終天の恨み
  自慰相思和舊題  自ら相思を慰めて旧題に和す
◯勝事 すぐれた風物。◯西園雅集 北宋の米芾に「西園雅集の記」がある。◯零落 さびれ廃れる。双声語。◯南浦 もとは南の水辺の意。『楚辞』九歌「河伯」に「美人を南浦に送る」とあり、送別の地を指す。六朝梁・江淹「別れの賦」(『文選』巻十六)に「君を南浦に送る、傷むこと之を如何せん」と。◯惨悽 双声語。◯関山 国境の山々。◯向 於と同じ。◯襟期 胸中の思い。◯望断 遠望しても見えない意だが、ここは希望が断たれているの意に用いるか。◯終天恨 恵洪の七律「胡卿才の時思亭」(『石門文字禅』巻十)に「功名未だ洗はず終天の恨み」と。〈終天〉は、終身の意。なお、この詩は、〈毎〉字を二度用いるが、律詩では同字の重複を避けるのがきまり。『夜航詩話』巻四にも「詩は同字を犯すを忌む。然れども義同じからずんば重複と為さず」云々と。

 次に七絶「雲州桃文学に寄す」(『詩鈔』巻七)を挙げておこう。

  都門分手歳華移  都門 手を分かちてより歳華移り
  邈矣美人天一涯  邈たり美人 天の一涯
  惟有昔遊時入夢  だ昔遊の時に夢に入る有り
  屋梁殘月照相思  屋梁の残月 相思を照らす
◯分手 (つないだ手を離して)別れる。六朝梁・沈約の「范安成に別る」(『文選』巻二十)に「生平少年の日、手を別つも前期を易しとす」と。◯歳華 歳月。◯邈矣 はるかに遠い。〈矣〉は、感嘆を表す助字。◯美人 うるはしき君子。西河を指していう。◯天一涯 「古詩十九首」其一(『文選』巻二十九)に「相去ること万里、各々天の一涯に在り」と。◯入夢 杜甫の五古「李白を夢む」詩(『古文真宝』前集)に「故人我が夢に入る」と。◯屋梁云々 これも「李白を夢む」に「落月屋梁に満つ」と。

 もう一首、七律「雲州の桃文学に報ゆ」(『詩鈔』巻五)には、

  各天離恨杳音塵  各天の離恨 音塵杳たり
  望斷生涯重會因  望断す生涯 重会の因
  二十年前同學友  二十年前 同学の友
  三千里外索居人  三千里外 索居の人
  雲山憖慰相思夢  雲山 なまじひに慰む相思の夢
  風月偏傷獨坐神  風月 ひとへに傷む独坐の神
  蒼髩長為宦途客  蒼鬢 長く宦途の客と為る
  桑楡暮景尚迷津  桑楡の暮景 ほ津に迷ふ
◯各天 それぞれ遠くに離ればなれでいること。前詩の「天一涯」の語釈参照。◯音塵 消息。便り。◯望断 前出「懐ひを雲州の桃文学に寄す」詩の語釈参照。◯二十年前 下文の〈三千里外〉と対偶表現にした例として、中唐・白居易「何れの処にか酒を忘れ難き七首」其二(『白氏文集』巻五十七)に「二十年前に別れ、三千里外に行く」と。◯憖 しいて。◯蒼鬢 白髪交じりの鬢。◯宦途 官界。役所勤め。◯桑楡暮景 人生の暮れつ方。三国魏の曹植「白馬王彪に贈る」(『文選』巻二十四)に「年は桑楡の間に在り、影響追ふ能はず」と。◯迷津 道に迷う。〈津〉は、渡し場の意。

「人生の暮れつ方を迎えようとしている今も、自分の行く道に迷っています」。
 ちなみに、『葛原詩話糾謬』巻一、「蓴菜」の条に「余聞之雲人一、松江鱸魚、以名産稱。其號松江、職是之由」云々と見える雲人(出雲の人)は、この西河であろう。

※桃西河については、佐野正巳『松江藩学芸史の研究 漢学篇』(明治書院、昭和56年)の「第五章 桃西河」に詳しい。

菅茶山(寛延元年[1748]~文政10年[1827])

 名は晋帥、字は礼卿。茶山はその号。備後神辺の人。東陽より8歳上。茶山は19歳の時に初めて上洛し、その後24歳にして那波魯堂に入門。西山拙斎とは同学である。それらを含め都合6回にわたって、学問修業のため京に来ているが、遊学の最後になったのが安永9年(1780)33歳の時で、その折には詳細な日記をつけているものの、そこに東陽の名が見あたらない。東陽の在京中には直接会う機会はなかったようだが、茶山の令名はその耳にも届いていた。詩の配列からすれば天明5年から8年までの間の作となる七律「備
後の菅礼卿に酬ゆ」(『詩鈔』巻四)に云う、

  青山綠野俗塵空  青山緑野 俗塵空し
  終日芸牕萬巻中  終日芸窓 万巻の中
  秋水池頭蓮葉雨  秋水池頭 蓮葉の雨
  夕陽門外稲花風  夕陽門外 稲花の風
  親朋不妨書癡謗  親朋妨げず書癡のそしり
  郷里何須武斷雄  郷里何ぞもちひん武断の雄を
  莫道費才村學究  かれ才を費す村学究と
  聲名籍甚大都通  声名籍甚 大都通ず
◯芸窓 書斎。〈芸〉は、香草。書物の防虫効果がある。◯籍甚 賞賛する者が多いこと。『書言故事』巻六、声名類にこの語を挙げ、『後漢書』陸賈伝の「名声籍甚」を引く。

 前半四句は、神辺の夕陽黄葉村舎をとりまく情景を想像して詠じる。後半四句「周囲から何と言われようと書痴文弱で大いにけっこうではないですか。田舎儒者だと謙遜されるには及びますまい、都では詩名が高くていらっしゃるのだから」。

※菅茶山の評伝・伝記については、富士川英郎『菅茶山』上下(福武書店、平成2年)および西原千代『菅茶山』(白帝社、平成22年)参照。また年表に菅茶山記念会・神辺町教育委員会編『菅茶山生誕250年記念 菅茶山略年表(草稿)』(平成11年)がある。

葛子琴(元文4年[1739]~天明4年[1784])

 『日本詩選』の作者姓名に「葛張 橋本氏。字は子琴、蠧庵と号す。俗称貞元。浪華の人。少にして聡穎、初め詩を兄臧宗・菅甘谷に学ぶ。ただに出藍のみにあらざるなり。医を業とす」と。『東山寿宴集』にも見える。東陽より17歳上。『詩鈔』巻六に五絶「浪華の葛子琴に寄す」詩がある。

  勝遊空入夢、風月去年秋  勝遊空しく夢に入る、風月去年の秋
  江閣就君宿、通宵話不休  江閣君に就いて宿し、通宵話してまず
◯勝遊 すばらしい旅。◯江閣 葛子琴の居宅をいう。堂島川に架けられた玉江橋の北畔にあった。◯通宵 一晩中。

 葛子琴と言えば、有名な逸話を東陽は『夜航余話』に書き留めている。―浪華の鳥山世章に奉公していた下女が急に暇乞いをして、葛子琴の家に仕えたかと思えば、またまもなく辞めてしまった。下女が申すに、世章の家で詩会があると、医者や坊主が集まって一晩中ひそひそ密談を交わし、時には激昂して声を張り上げる者もいる。これは謀反を企てる一味に違いないと関わり合いになっては大変だというので、奉公先を変えて葛子琴の家に来たら、やはり同じこと。空恐ろしくなってそれで辞めたという。その話をした葛子琴は、これは由井正雪や山県大弍の事件を語る軍書読み(講談)の影響だろ
うと大いに笑ったという。
 なお、『詩鈔』では、この詩の八首前に寛政元年作の「釈褐三首」が置かれ、四首後に「高山彦九郎を悼む」詩がある。これは寛政5年の作と見られるから、葛子琴に寄せたこの詩は、その間に作られたということになるが、葛子琴は天明4年に没しているので、それはあり得ない。詩の配列に問題があるのであろう。

※葛子琴については、水田紀久『葛子琴 中島棕隠』(江戸漢詩人選集第六巻。岩波書店、平成5年)参照。『夜航余話』については、揖斐高、前掲書参照。

木村世粛(元文元年[1736]~享和2年[1802])

 『日本詩選』の作者姓名に「木弘恭 字は世粛、浪華の人。木村氏、吉衛門と称す。居る所、蒹葭堂と名づく。好事博交の故を以て、其の名四方に伝播す」と。『春荘賞韻』にも見える。大坂で酒造業を営んだ豪商。屋号は坪井屋。書画典籍の蒐集や博物学で知られた好事家で、混沌社にも加わった。東陽より21歳上。在京時代の作に七絶、「秋夜浪華の木世粛を懐ふ」(『詩鈔』巻七)があり、題下に「世粛の居る所、蒹葭堂と号す」と注する。

  金天玉露入涼秋  金天玉露 涼秋に入る
  坐向江南憶舊遊  坐して江南に向ひ旧遊を憶ふ
  詩酒清歡風月興  詩酒清歓 風月の興
  蒹葭一水望悠悠  蒹葭一水 ながめ悠悠
◯金天 秋。五行説で、秋は金に属する。◯玉露 玉のような露。杜甫の七律「秋興八首」其一(『唐詩選』巻五)に「玉露凋傷す楓樹の林」と。◯清雅 俗事に関わらぬ閑雅な楽しみ。◯風月 清風明月。

 さらにもう一首、題下に「世粛さきに浪華を去り、北勢の海浜に卜居す。予の郷里に近し」と注する七絶「懐を木世粛に寄す」詩(『詩鈔』巻八)がある。世粛は、寛政元年に酒造の石高違反に問われ、翌年、伊勢長島に引退したが、これは当地を治める増山正賢(号は雪斎。宝暦4年[1754]~文政2年[1819])の後援によるもので、〈北勢の海浜〉は、長島を指す。なお、世粛が大坂にもどるのは、寛政5年になってからである。

  舊好依依思有餘  旧好依依として思ひ餘り有り
  滄洲遁跡水雲居  滄洲の遁跡 水雲の居
  春風鄕味櫻花節  春風郷味 桜花の節
  紅艶時鮮吉鬣魚  紅艶時鮮 吉鬣魚
◯依依 心ひかれるさま。◯滄洲 『夜航詩話』巻二に「詩家つねに滄洲を用ふ。蓋し滄浪を取り名と為す。朝市に対して言ふのみ。必ずしも仙島を指さざるなり」と。杜甫の七律「曲江酒に対す」に「吏情更に覚ゆ滄洲の遠きを」とあり、『杜律詳解』に「滄洲は江湖隠逸の境をふ」と注する。拙稿「津阪東陽『杜律詳解』上巻014」参照。◯遁跡 隠居をいう。◯水雲居 水や雲が広がる地にある住まい。これも隠逸をイメージさせる語。ここは、伊勢長島を指していう。◯時鮮 旬の食べ物。

結句の後に「花時、紅魚もっとも美なり。俗に桜鯛と称す」と注する。

※木村世粛については、中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』(新潮社、平成12年)、水田紀久『水の中央に在り 木村蒹葭堂研究』(岩波書店、平成14年)がある。なお、世肅に来訪者や交友の記録『蒹葭堂日記』があり、水田紀久氏らによって影印・翻刻されているが、東陽の京都時代と重さなる安永8、9年および天明2年から8年(天明元年は原闕)までの記述に彼の名は見あたらない。


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