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覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(2)

著者 二宮俊博

旧友との再会―平井澹所

 平井澹所(宝暦12年[1762]~文政3年[1820])

 名は業。字は可大。通称は、直蔵。澹所と号した。三村竹清「平井澹所」によれば、初め名を篤、字を君敬としていたのを、後出の平沢旭山からの勧めで『易経』繫辞上伝の「久しかる可きは則ち賢人の徳、大なる可きは則ち賢人の業」というのに拠って改めたとされ、号についても旭山から与えられたという。東陽より五歳下。伊勢こもの人で、20の歳(一説では19)に江戸に出、昌平黌に学んだ。寛政5年(1793)桑名侯に仕え、藩校の督学となった。
 『詩鈔』巻九に次のように題した七絶二首がある。文化11年(1814)秋、江戸に着いて間もなくの作であろう。
 「余與平井可大同郡通家、年紀亦相若。一別垂四十年、邂逅相遇、怳若梦幻。俯仰今昔、悲喜交集。弱冠前、可大遊江戸、余赴京師。臨別相戒曰、業成筮仕、不肎休賣、非食禄數百石、未可以為士也。可大為桑名侯所聘、領二百石、為國校督學、班從大夫之後、余則薄官蹉跎、微禄蝸濡、碌碌不能有所為。小詩自嘲、漫發一笑。二首」
(余、平井可大と同郡の通家、年紀もた相く。一別四十年になんなんとし、邂逅相遇ふ。きやうとして夢幻のごとし。今昔を俯仰し、悲喜こもごも集まる。弱冠前、可大は江戸に遊び、余は京師に赴く。別れに臨んで相戒めて曰く、業成り筮仕するに、肯へて売るをめず、食禄数百石に非ざれば、未だ以て士とす可からざるなり。可大は桑名侯の聘する所と為り、二百石を領し、国校の督学と為り、班は大夫の後に従ふ。余は則ち薄官蹉跎し、微禄蝸濡、碌碌として為す所有る能はず。小詩自嘲し、みだりに一笑を発す、二首)
◯通家 父祖の代から親しく交際している家。『書言故事』巻二、親戚類に「旧親を叙して通家の好有りとふ」と。◯邂逅相遇 期せずして出会う。『詩経』鄭風「野有蔓草」に「邂逅して相遇ふ、我が願ひにかなふ」と。◯怳 驚き見るさま。◯悲喜交集 〈交〉は、一斉に、一時にの意。中唐・元稹「鶯鶯伝」に「児女の情、悲喜交も集まる」と。◯弱冠 二十歳。『礼記』曲礼の「二十を弱と曰ひ、かんむりす」から出た語。◯筮仕 初めて仕官する。古代、その吉凶を占ってから仕官したことからいう(『左氏伝』閔公元年)。『書言故事』巻八、仕進類に「初めて官とるを筮仕と曰ふ」と。◯薄官 地位の低い官吏。薄宦と同じ。◯蹉跎 もたもたする。畳韻語。初唐・張九齢の五絶「鏡に照らして白髪を見る」詩(『唐詩選』巻六)に「宿昔青雲の志、蹉跎す白髪の年」と。◯蝸濡 蝸牛が粘液でその身を保護するように僅かな俸禄で何とか生活する。〈蝸濡〉の語、用例未見。◯碌碌 凡庸なさま。

  妙年意氣奮相看  妙年の意気奮って相看る
  壯志安知世路難  壮志 いづくんぞ知らん世路の難きを
  今日逢君慙媿殺  今日君に逢ひて慙 殺す
  徒將薄禄老儒酸  いたづらに薄禄をもつて儒酸に老ゆ
◯妙年 若い時分。◯壮志 さかんな心意気。◯世路難 人生行路の難儀さ。中唐・白居易の五古「初めて太行の路に入る詩」(『白氏文集』巻一)に「し世路の難きに比ぶれば、たなごころよりも平らかなり」と。◯殺 動詞の後に置いて、程度の甚だしいことを示す。但し、〈慙媿殺〉というのは、みかけない表現。◯儒酸 みすぼらしい貧乏学者。北宋・周敦頤の七律「任所より郷関の故旧に寄す」(『周溓渓集』巻二)詩に「老子生来骨性寒たり、宦情改めず旧儒酸」と。

   其二
  功業蹉跎歳月徂  功業蹉跎し歳月
  自憐窮瘁老頭顱  自ら憐れむ窮瘁の老とう
  若非聲氣猶依舊  し声気ほ旧に依るに非ざれば
  相遇安能識故吾  相遇ふもいづくんぞ能くふるき吾れを識らん
◯歳月徂 前漢・韋孟「諷諫」詩(『文選』巻十九)に「歳れ徂き、年其れ耇におよぶ」と。◯窮瘁 困窮憔悴。晋・葛洪『抱朴子』審挙に「れ唯だ價を待つ、故にとみに窮瘁にしづむ」と。◯老頭顱 白髪頭のおいぼれ。◯依旧 昔のまま。◯故吾 昔の自分。『荘子』田子方篇に見える。

 東陽が出府するについては、おそらく事前に江戸の澹所に報せていたはずで、詩題のなかに「邂逅相遇」というのは、ややそぐわない表現のようにも思えるが、一別以来四十年近くになろうという今、図らずも君と再会することになったというのであろう。
 東陽と澹所とは少年時代の勉学仲間・遊び友達で、東陽21歳の安永6年(1707)10月12日には、澹所を含む早川文卿・横山士煥・久保希卿・森子紀といった八人で湯の山温泉のある菰野の山々に遊んだこともあった(『文集』巻三、「菰野山に遊ぶ記」)。この頃の東陽は京で学ぶ一方、郷里にもおりにつけ帰っていたのである。
 在京時に横山士煥に宛てた書簡(『文集』巻十、「横山士煥に答ふ」)は、呉音・漢音の由来についての質問に答えるのを主たる内容とするが、その中で東陽は塾の講師稼業に忙殺されていることを訴え、また9月下旬に書かれた士煥の手紙を携えて上京した「井生」が10日あまり病床に伏せっていたものの、今では全快し「学に勤めること孜々ししたり。夙夜おこたるにあらず。時に二三子に従って遊観すといへども、未だかつて足は花街柳巷に渉らず、志気堅厚、業の成る保す可きなり」と、その近況を報せている。この「井生」とは、どうやら澹所のことらしい。三村竹清「平井澹所」によれば、永田俊平(号は観鵞)に就いて書を学んだという。永田観鵞と東陽との関わりは、前稿で安永・天明期の京都での交友を論じた際、これに触れておいた。
 なお、これも「平井澹所」に見えるが、6歳にして菰野藩儒で医を兼ねた南川金渓(名は維遷、字は士長または文璞。享保17年[1732]~天明元年[1781])の門に入って句読を受けたとのこと。金渓は代々農を業とする家に生まれ、苦学力行して一家を成した人である。ちなみに、東陽は先の横山士煥宛書簡の末尾に転居した旨を知らせ、「里名は別に南文学に報ずる書に具す」と述べている。この「南文学」は、南川金渓を指す。金渓は安永八、九年(1779、80)藩命により江戸に祗役したが、帰国後は、体調を崩し病の床に臥すことが多かったもようで、天明元年(1781)9月14日に50歳で歿した。その当時京にいた東陽には南渓の病気を気遣う「南川士長に復す」書(『文集』巻十)を寄せ、またその死を悼んだ作に七律「南川士長を哭す」詩(『詩鈔』巻四)がある。題下に「菰野文学」と注した哭詩は、次のごとくである。

  儒林德望國家光  儒林の徳望 国家の光
  幾歳交深翰墨場  幾歳交はりは深し翰墨の場
  星隕金天偏惨憺  星ち金天ひとへに惨憺たり
  霜飛玉樹忽凋傷  霜飛び玉樹たちま凋傷ちうしやう
  老來猶務三餘業  老来ほ務む三餘の業
  身後長流百世芳  身後長く流る百世の芳
  愁絶遊魂招不返  愁絶す遊魂招けども返らざるを
  孤琴誰復辨峨洋  孤琴誰か復た峨洋を弁ぜん
◯儒林徳望 儒者仲間から徳行を高く評価され声望があること。◯国家光 菰野藩の輝かしい存在。◯翰墨場 詩文の集まり。詩壇。杜甫の五古「壮遊」詩に「往昔十四五、出遊す翰墨の場」と。〈翰〉は、筆。◯星隕 優れた人物の死を譬える。◯金天 秋空をいう。五行説で、金は秋にあたる。◯惨憺 暗澹たるさま。畳韻語。◯霜飛 西晋・張協「七命」其四(『文選』巻三十五)に秋ともなれば「天凝り地閉ぢ、風はげしく霜飛ぶ」と。◯玉樹 美しい樹木。金渓を譬える。◯凋傷 しぼみ枯れる。杜甫の七律「秋興八首」其一(『唐詩選』巻五)に「玉露凋傷す楓樹の林」と。◯三餘業 読書、勉強のこと。三国魏の董遇が勉強するなら三餘の時を以てすべきで、冬は歳の餘、夜は日の餘、雨降りは時の餘だと言った故事による。『蒙求』巻下の標題に「董遇三餘」がある。◯身後 没後。◯流百世芳 末代まで誉れをのこす。南宋・劉克荘の七律「太守宋監丞、三先生の祠を新にし二劉の遺文を刊す、二詩を以て実を紀す」其一(『後村先生大全集』巻三十二)に「名節能く流す百世の芳」と。◯愁絶 ひどくうれえる。〈絶〉は、強調の助字。◯遊魂 さまよう魂。◯招不返 明・皇甫汸の五律「呉純叔挽詞二首」其一(『皇甫司勲集』卷二十二)に「楚魂招けども返らず、誰とともと詞場をほしいままにせん」と。◯峨洋 山が高々と聳え水が広々と流れる意で、伯牙が琴を弾くのに高山をイメージすると鍾子期は「峩峩として泰山のごとし」と称え、流水だと「洋洋として江河のごとし」と讃えたという故事(『列子』湯問篇)から出た語。結句は、あなたが亡くなって、我が爪弾く琴の音(詩文の趣旨)を理解してくださる方がいない、という意。

 ところで三村氏によれば、平井澹所の江戸に遊学については、金渓から関松窓(享保12年[1727]~享和元年[1801])への紹介があったという。松窓は平沢旭山(享保18年[1733]~寛政3年[1791])とともに金渓が江戸祗役中に交友を結んだ一人である。そこで思い合わされるのは、東陽の京都遊学である。当時、京の詩壇の中心にいた江村北海は、明和8年(1771)刊『日本詩史』巻五で伊勢の詩人を取り上げ、金渓について「又た南川文伯
有り、詩を以て著称す。かつて京師に来たり、僧金龍に因りて余にまみゆ」と述べ、金龍道人と号した釈敬雄(正徳2年[1712]~天明2年[1782])を介して知り合ったとしている(ちなみに、安永2年刊[1773]の『日本詩選』には金渓の詩を三首、同6年刊の『日本詩選続編』には五首を採録)。また金渓が「元和以来の巨儒碩匠の言語事跡を捃摭くんせき(収集)し」た『閑散餘録』(天明2年刊)には、龍公美(草廬)の安永元年(1772)作の序についで同2年附けの序を寄せており、天明5年(1785)には彼の墓碑「金渓南川先生之碑」を撰している。以上のことからすれば、東陽が京都で北海に刺を通ずるに際にも、やはりこの金渓の添状があったのではないか。さらには東陽が伊藤仁斎・東涯父子の古義学に興味関心を抱くきっかけとなったのも金渓からの教示によるところが大きかったのではあるまいか。金渓は伊藤東涯に書問での教えを乞うた菰野藩儒の龍崎たつざき致斎(名は泰守、字は君甫。元禄2年[1689]~宝暦12年[1762])に学んだ人でもあったからである。東涯には「致斎記」(『紹述先生文集』巻六)がある。
 その当否はともかく、平井澹所との再会を詠じた先の詩題中に、かつて二人が将来の夢を語り合って「学業成っていざ仕官というときには、積極的に売り込もう。数百石の禄をむ身分にならなければ、士とは言えないからな」と互いに戒めたとあり、善賈を求めて「之をらんかな、之を沽らんかな」(『論語』子罕篇)と積極的に自分を売り込み、数百石の身分になるのでなければ、仕官する意味がないとするのは、東陽が弱年より抱いていた強い信念であり、官途に就く上での一つの目標であったことがわかる。かつて京に遊学していたおり、その経済的苦境に喘いでいるのを見かねて、或る人から入り婿になるよう勧められたのを断ったことがあったが、その際に仕官して禄を食むと、「自ら位分(身分相応)の体(体裁)有り、出でては則ち士の事を行ひ、入りては則ち臧獲(下男・下女)をやしなひ、書剣購求の需、凡百の冗費、唯だ禄のみ是れ仰ぐ。二百石已上に非ざれば、抗顔(厳めしい顔つき)して士と称するを得ず。いたづらに薄俸もて口にのりす、何を以て士と為さんや」(『文集』巻十、「松平丈人に報ず」)と述べて、具体的に二百石以上という数字を挙げている。
 されば、すでに江戸で二百石取りの桑名藩儒となって遠い少年の日に抱いた志望を実現している澹所に対して、我が身を顧みて慙愧の念を抱き、自嘲気味に「儒酸に老ゆ」と述べたのは、偽らざる心情であったのである。かかる東陽が実際に二百石の身分となったのは、文政2年(1819)に藩侯の侍読の身で藩校有造館の督学に任じられた時のことで、齢63になっていた(『文集』巻五、「寿壙誌銘」)。
 江戸での作には、さらに五律「平井可大と旧をかたる」(『詩鈔』巻三)および七律「平井可大に和す」詩(『詩鈔』巻五)があり、前者は、

  雄飛丈夫志、狂簡漫相爭  雄飛するは丈夫の志、狂簡みだりに相争ふ
  豈用蠅頭字、虚傳驥尾名  に蝿頭の字をもつて、虚しく驥尾の名を
               伝へんや
  為歡如昨日、話舊似前生  歓を為すこと昨日の如く、旧を話ること
               前生に似たり
  寥落倦游客、衰年坐愴情  寥落たり倦游の客、衰年そぞろに情をいた
               しむ
◯雄飛 世に出て大いに活躍する。『後漢書』趙温伝に「大丈夫生まれてまさに雄飛すべし、いづくんぞ能く雌伏せんや」と。◯狂簡 むやみに大言壮語し向う見ずに突っ走る。『論語』公冶長篇に「吾が党の小子は狂簡、斐然として章を成す。之を裁つ所以を知らざるなり」と。◯蝿頭字 ハエの頭のような極めて小さな文字。訓詁注釈の学をいうのであろう。◯驥尾 駿馬の尾。『後漢書』公孫述伝に「蒼蝿の飛ぶ、数歩に過ぎず、驥尾に附託して以て群を絶するを得」と。『書言故事』巻四、送行類に「附驥」を挙げ「人行を参逐するを驥に附すと云ふ」とし、公孫述伝を引く。◯前生 前世。過去世。◯寥落 さびしくひっそりとしたさま。双声語。◯倦游 他鄕での役人暮らしに倦む。◯衰年 老年。杜甫の五律「舟をうかべて魏倉曹の京に還るを送る……」詩に「し岑と范とに逢はば、為に報ぜよ各々衰年なりと」と。◯愴情 心を傷める。

と詠じられ、後者は津藩邸内の宿所―和泉橋通御徒町の上屋敷か下谷二長者町の中屋敷かであろう―に身を寄せている東陽のもとへ澹所が訪ねて来たらしく、庚申の夜に語り明かしたことをいう。おそらくは10月3日のことであったと思われる。

  小來同學故郷人  小来の同学 故郷の人
  客裡交歡一段親  客裏の交歓 一段と親しむ
  白首相驚詢甲子  白首 相驚きて甲子を
  青燈偶坐守庚申  青燈 偶坐して庚申を守る
  樽中有酒諳君量  樽中に酒有り 君が量を諳んず
  厨下無膎諒我貧  厨下にさかな無く 我が貧を諒とせよ
  深媿病夫鐘漏盡  深く媿づ病夫の鐘漏尽くるを
  宦途蹭蹬尚迷津  宦途蹭蹬そうとうとしてほ津に迷ふ
◯小来 幼い時分から。杜甫の五古「李校書を送る二十六韻」詩に「小来習ひ性としてものうし」と。◯客裏 故里を離れた他郷。◯甲子 干支。年齢。晩唐・李商隠の七絶「戯れに題して稷山の駅吏王全に贈る」詩に「過客甲子を詢ふを労せず、だ亥字を書して時人に与ふ」と。◯偶坐 向き合って座る。〈偶〉は、対の意。◯守庚申 中唐・権徳輿に「道者とともに庚申を守る」詩がある。ちなみに、東陽の『夜航詩話』巻五に「世に庚申会といふもの有り。相伝ふ三井寺の開祖、智證大師(円珍のこと)、西渡の時伝来す。ふ人身中に尸虫有りと。亦た三彭と云ふ。人の隠匿を記し、庚申の夜ごとに、人のねむりに乗じ、升りて之を天に告ぐ。或いは謂ふ、是の夜悪星有り、降って人の骸竅の間に入り、其の罪悪を伺察すと。蓋しと道家の教へなり。ここに於いて俗間、比隣、社を結び、或いはけいを鳴らし仏を念じ、或いは置酒絃歌し、徹夜之を守りてねず、た痴騃の甚だしきならずや」云々と。◯膎 乾肉。ここは魚の干物であろう。『字彙』に「雄皆の切、音はかい。説文に脯なり。徐曰く、古は脯の屬をひて膎と為す。因って通じて儲蓄の食味を謂ひて膎と為す。南史に孔靖、宋の高祖に飲ましむ。膎無し。伏雞卵を取りて肴と為すと」と。◯鐘漏 人生に残された時間。〈漏〉は、水時計。六朝陳・徐陵「李顒之に答ふる書」に「餘息綿綿として、鐘漏を尽くすを待つ」と。◯宦途 官界。役人勤め。◯蹭蹬 よたよたするさま。畳韻語。◯迷津 道に迷う。〈津〉は、渡し場の意。

 ともに白髪頭となり年齢を訊ねて、歳月の流れを実感する。「今宵は庚申、昔のように夜を徹して語り明かそう。そなたがどれほどいける口かは存じているが、台所に酒の肴がないのは勘弁してくれ」。ここで自ら〈病夫〉と称しているのは、当初江戸の風土に慣れず体調を崩していたことによるのだろう。五絶「江戸客中、風土に苦しむ二首」其一(『詩鈔』巻六)には「寒暑ふたつながらどく、卑湿もっとも虐をす」と嘆じている。〈毒痡〉は、苦しめ悩ます意。身の毒。結句は、かつて松江藩儒の桃西河に宛てた七律「雲州の桃文学に報ず」詩(『詩鈔』巻五)において「蒼びん 長く官途の人と為る、桑楡の暮景 尚ほ津に迷ふ」と述べるのと同一の感慨。
 この澹所には、東陽が京に遊学していた時に、『世説新語』言語篇に載せる六朝宋・謝霊運と隠士の孔淳之(字は彦深)との問答についての解釈をめぐる質問に答えた手紙を送ったことがあり、その末尾には「近ごろ足下の読む所は何の書ぞ、著述する所有るか。春日やうやく永し、隙虚せしむるなかれ。これを勉めよ、旃を勉めよ」と先輩らしい言葉を書き添えている(『文集』巻八、「平井可大に答ふ」。なお、〈春日〉以下は、明・王世貞の寛保2年[1742]刊『弇州先生尺牘選』巻下、『弇州先生四部稿』卷一二八「魏允中に与ふ」に見える表現をそのまま襲用)。また折にふれて詩のやりとりをしており、「平井可大に贈る」(『詩鈔』巻一)と題して、次の五言古詩を江戸に寄せていた。

  吾道席上珍、君自青雲士  吾が道は席上の珍、君は自ら青雲の士
  英氣溢眉宇、立志殊卓爾  英気は眉宇に溢れ、志を立つることこと
               卓爾たり
  鄕曲幸相隣、况是通家子  郷曲さいはひに相隣す、いはんや是れ通家の子
               なるをや
  詩賦驚奇句、談論飽逸旨  詩賦は奇句に驚き、談論は逸旨に飽く
  交誼金蘭契、情好均昆弟  交誼は金蘭の契、情好は昆弟にひと
  河梁一分手、關山邈千里  河梁 一たび手を分かちて、関山 千里
               ばくたり
  曩歡空春戀、悠悠歳月徙  曩歓なうくわん空しく春恋ひ、悠悠として歳月うつ
  壯士三日別、殷勤刮目俟  壮士は三日別るれば、殷勤に刮目して
  雄都豪傑交、豹變定何似  雄都 豪傑の交、豹変 定めていか
  文章才彌茂、學優自堪仕  文章 才弥々いよいよ茂く、学んで優なれば自ら
               仕ふるに
  時方遇右文、世豈無知己  時まさに右文に遇ふ、世にに知己無から
               んや
  男兒要自立、何用附驥尾  男児は自立を要す、何ぞもつて驥尾に附さ
               んや
  居安以俟命、優游綏徳履  安きに居て以て命をち、優游して徳履
               にやすんず
  誰知高士節、從他俗人毀  誰か知らん高士の節、俗人のこぼつに従他まか
◯吾道 『論語』里仁篇に「吾が道は一以て之を貫く」と。◯席上珍 座席上の珍宝。『礼記』儒行篇に「儒に席上の珍以て聘を待ち、(中略)力行以て取るを待つもの有り」と。古代の堯舜のよき道を述べて、君主の招聘をまつ意。後漢・鄭玄の注に「往古の堯舜の善道を鋪除して以て問はるるを待つなり」と。東陽の在京時代の作「頼千秋に贈る」詩(『詩鈔』巻四)にも「吾が道修め来る席上の珍」と。◯青雲士 高い位にある人(『史記』伯夷列伝)。◯眉宇 眉や額のあたり。◯卓爾 高く抜きんでているさま。◯郷曲 郷里。◯奇句 奇抜な句。◯逸旨 優れた主旨。◯金蘭契 金属のように堅く、蘭のようにかぐわしい交わり。『易経』繋辞上伝に「二人心を同じくすれば、其の利きこと金を断ち、同心の言、其のかぐはしきこと蘭の如し」と。◯昆弟 兄弟。◯河梁 送別の地をいう。前漢・李陵の作とされる「蘇武に与ふ三首」(『文選』巻二十九)其三に「手を携へて河梁に上る、遊子暮れにいづくにかく」と。◯関山 国境くにざかいの山々。◯悠悠 うかうかと。◯曩歓 かつての歓談。◯三日別 三国呉・呂蒙の言に「士別るること三日、すなはち更に刮目して相待せよ」と(『三国志』呉志・呂蒙伝の裴松之注に引く『江表伝』)。◯殷勤 ねんごろに。畳韻語。◯雄都 江戸のこと。杜甫の五排「江陵にて幸を望む」詩(『唐詩選』巻四)に「雄都と壮麗なるも、幸を望まばたちまちに威神有らん」とあり、江陵を指していう。◯豹変 直ちに善い方向に変わる。『易』革卦上六に「君子は豹変す」と。現代日本語の用法のような悪い意味ではない。◯学優 『論語』子張篇に「学んで優なれば則ち仕ふ」と。◯右文 学問を重んじ文治を尊ぶ。◯知己 己れを認め引き立ててくれる者。◯自立 『礼記』儒行篇に先に挙げた箇所につづけて「其の自立かくの如き者有り」と。また北宋・柳開「宋の故中大夫行監察御史贈祕書少監柳公の墓誌銘并びに序」(『河東先生集』第十四)に「男児まさに自立すべし、人を学び婦家に因って富貴をもとむる能はざるなり」と。◯居安以俟命 自己の境遇に安んじて運命のなりゆきをまつ。『中庸』に「上は天を怨みず、下は人をとがめず。故に君子は易に居りて以て命を俟ち、小人は険を行ひて以て幸をもとむ」と。◯優游 ゆったりとしたさま。◯徳履 徳行。◯高士 在野の志操高潔な人物。◯従他 この二字で、まかせる意。〈他〉は、接尾語。「サモアラバアレ」とも訓じる。

 なお、この詩には「可大、時に江戸の昌平学の都講り。江戸は京師を去ること一百三十餘里。千里はいにしへの里程を用ふ。凡そ集中の記する所、題辞の註文は謹んで今世の制に従ふ。詩詞は則ち古の風雅の道をたふとぶをしかりと為す。敢へて時制にもとるに非ざるなり」という自注を附している。〈都講〉は、塾頭。
 さらに京都での作に七絶「和して平井可大に答ふ」(『詩鈔』巻七)がある。

  漫為壯遊輕別離  みだりに壮遊を為して別離を軽んず
  江雲渭樹坐相思  江雲渭樹 そぞろに相思ふ
  故國烟花春欲遍  故国の烟花 春あまねからんと欲す
  莫教鴻雁先帰期  鴻雁をして帰期に先んぜしむることなか
◯壮遊 壮志を抱いて遠くに遊学する。杜甫に「壮遊」詩がある。◯軽別離 白居易「琵琶引」(『白氏文集』巻十二)に「商人は利を重んじて別離を軽んず」と。◯江雲渭樹 友人と遠く離れていること。またはるか遠くにいる友。杜甫が渭水の北、長安にいて江東の李白を思い出して詠んだ五律「春日李白を憶ふ」詩の「渭北春天の樹、江東日暮の雲」から出た語。例えば、元・戴良の七律「項彦昌を懐ふ」詩(『九霊山房集』巻二十五)に「渭樹江雲つねに君を憶ふ、別來だ見る白頭新たなるを」と。◯故国 故郷。◯烟花 美しい春景色。李白の七絶「黄鶴楼にて孟浩然の広陵にくを送る」詩(『唐詩選』巻七)に「煙花三月揚州に下る」と。◯帰期 帰る期日。晩唐・李商隠の七絶「夜雨北に寄す」詩(『唐詩選』巻八)に「君帰期を問ふも未だ期有らず」と。

別離の悲しみよりも新たな出会いの喜びの方が大きく、「生平少年の日、手を分かつも前期を易しとす」(『文選』巻二十、六朝梁・沈約「范安成に別る」詩)と思うのは、古今を問わず、春秋に富んだ若者ならではの楽観的な考え方であるが、東陽や澹所もかつてはそうした青年の一人であった。
 津藩への出仕がかなったことを報じたとみられる詩もある。七律「平井可大に寄す」(『詩鈔』巻五)には、

  大邦寵聘耀家庭  大邦の寵聘 家庭を耀かがやかす
  展志青雲髩未星  志を青雲にべてびん未だ星ならず
  何必梁園誇授簡  何ぞ必ずしも梁園に簡を授けられしを誇らんや
  由来魯國重談經  由来魯国は経を談ずるを重んず
  祈年方與民偕樂  年を祈りまさに民とともに楽しむ
  混俗還能我獨醒  俗に混じりかへって能く我独り醒めんや
  報道榮旋花發日  報じてふ栄旋花発する日
  春風相待眼倶青  春風相待し眼ともに青し
◯大邦 大藩。ここは津藩三十六万石を指す。◯寵聘 格別の思召しによる召し抱え。◯青雲 高位高官の喩え。◯髩未星 鬢にまだ白髪が交じっていない。南宋・范成大の五律「胡長文給事の挽詞三首」其二(『石湖居士詩集』巻三十一)に「許国 心は日の如く、家に還るも鬢未だ星ならず」と。東陽の『夜航詩話』巻三に「詩に星の字を用ふ、猶ほ点と云ふがごとし。(中略)故に謝康楽の詩に〈星星白髪垂る〉、欧陽公の秋声賦に〈然として黒き者は星星と為る〉と、白髪始めて生じ華点点たるを言ふなり」と。◯梁園授簡 堂上公家の詩会で詩文を作るよう命じられる。南朝宋の謝恵連「雪の賦」(『文選』巻十三)に梁王と司馬相如との問答を仮構して「簡を司馬太夫に授けて曰く」云々と。◯魯国 春秋時代の国名。中唐・劉長卿の五排「鄭説のせふ州にき薛侍郎に謁するを送る」詩に「漢家は太守を尊び、魯国は諸生を重んず」と。ここでは津藩を指していうのであろう。◯祈年 豊年を祈願する。『詩経』大雅「雲漢」に「年を祈るはなははやく、方社おそからず」と。◯与民偕楽 『孟子』梁恵王上に「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむ」と。◯独醒 戦国楚・屈原の作とされる「漁父の辞」(『楚辞』巻七、『文選』巻三十三、『古文真宝』後集巻一)に屈原の言葉として「世を挙げて皆濁り我独りめり、衆人皆酔ひ我独り醒めたり」と。◯栄旋 栄転の意であろう。◯眼倶青 柳の新芽(柳眼)が青々としているのと人々が青眼をもって迎えてくれるのとを掛けていうのであろう。

と詠じて、仕官がかなった喜びを率直に表し、民のために力を尽くしたいとする自らの抱負を述べている。『詩鈔』巻八に「寛政己酉八月、褐を本藩に解き、伊州教授に充てらる。10月始めて上野にうつる」云々と題する七絶があり、それによれば、東陽が津藩に15人扶持で出仕したのは、寛政元年(1789)8月のことで、支城のある伊賀上野勤務が決まって10月には任地に赴くのであるが、その時の作とするには詩中に「花発日」や「春風」の語句が見えるのと時期が合わない。『詩鈔』巻五には、この詩の前に七律「伊賀に赴く途中の作」があり、その頸聯に「俗紫凡紅春自らさわがし、頑山鈍水ひとへに長し」の句があることからすれば、あるいは寛政2年春の作であろうか。ちなみに、〈俗紫凡紅〉は、南宋・陸游の七絶「春雨絶句」六首其五(『剣南詩稿』巻二十二)に見える表現。〈頑山鈍水〉については、用例未見。
 もっとも、平井澹所に示したような当初の意気込みとはうらはらに任地の伊賀上野では山崎闇斎派の道学者との軋轢があり、思うようにならず気を腐らすことが多かった。その鬱屈は京都の詩友に寄せた詩の幾つかに見えること、すでに前稿「覚書:津阪東陽の交友Ⅰ―安永・天明期の京都―」において紹介したが、澹所に対しては、七古「閑居してみだりに短歌を成す、平井可大に贈る」(『詩鈔』巻一)と題して、次のような感慨を寄せている。

  夙自抗志従儒服  つとに自ら志をげて 儒服に従ひ
  翰墨塲中漫馳逐  翰墨場中 みだりに馳逐す
  斯文好脩君子業  斯文をさめん君子の業
  吾道從誹小人腹  吾が道 そしるにまかす小人の腹
  大丈夫當自立耳  大丈夫まさに自立すべきのみ
  因人成事何碌碌」 人に因って事を成すは何ぞ碌碌ろくろくたる」
  安知此生本數奇  いづくんぞ知らんの生と数奇なるを
  投閑置散分之宐  閑に投じ散に置くは分の宜しきなり
  人世艱難青雲阻  人世の艱難 青雲阻まれ
  歳月蹉跎白髪垂  歳月蹉跎として白髪垂る
  悲歌慷慨聊復爾  悲歌慷慨 いささかくするのみ
  湖海豪氣彼一時  湖海の豪気 彼も一時
◯抗志 志を高く持つ。三国魏・曹植「七啓」(『文選』巻三十五)に「志を雲際に抗ぐ」と。◯儒服 儒者の着る服。◯翰墨場 詩文の集まり。詩壇。前掲「南川士長を哭す」詩の語釈参照。◯馳逐 競いあう。◯斯文 儒学。◯君子業 君子たるものの務め。◯小人腹 語は『左氏伝』昭公28年に「願はくは小人の腹を以て君子の心と為さん」と見える。ここは、つまらぬ輩の心ばえ。◯大丈夫 『孟子』滕文公下に「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ひ、(中略)富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず、此れを之れ大丈夫と謂ふ」と。◯自立 先に挙げた五古「平井可大に贈る」詩に「男児は自立を要す」と。◯因人成事 戦国趙の平原君に養われていた食客、毛遂が楚との盟約を成功させた際、同行した他の食客を評した言葉に「公等録録、所謂いはゆる人に因って事を成す者なり」と(『史記』平原君虞卿列伝)。〈録録〉は、碌碌と同じ。凡庸なさま。◯数奇 不遇、不運。◯投閑置散 閑散な地位職務に身を置く。世に用いられぬこと。中唐・韓愈「進学解」(『韓昌黎集』巻十二、『古文真宝』後集巻二)に「閑に投じ散に置くは、すなはち分の宜しきなり」と。◯青雲 高い地位・身分の喩え。◯蹉跎 もたもたするさま。畳韻語。初唐・張九齢の五絶「鏡に照らして白髪を見る」詩(『唐詩選』巻六)に「宿昔青雲の志、蹉跎す白髪の年」と。◯悲歌慷慨 嘆きや怒りなどの昂る感情を悲壮に歌うこと。『史記』項羽本紀に見える表現。◯聊復爾 ちょっとそうしただけだ、の意。『世説新語』任誕篇にみえる阮咸の言葉に「未だ俗を免かるること能はず、聊か復た爾するのみ」と。◯湖海豪気 浪人時代の豪放の気。『後漢書』陳球伝に「許汜、劉備と語りて曰く、陳元龍は湖海の士、豪気除せずと」と。『書言故事』巻六、声名類に「湖海士」の条にも挙げる。◯彼一時 あの時はあの時。『孟子』公孫丑下に「彼も一時、此れも一時」と。

 次に挙げる五律「平井可大に答ふ」(『詩鈔』巻三)も、伊賀上野での作であろう。

  音書感情誼、天末思悠悠  音書 情誼に感じ、天末 思ひ悠悠
  旅宦將遲暮、關山奈阻脩  旅宦 まさに遅暮せんとし、関山阻脩を
               いかんせん
  舊游雲四散、往事水東流  旧游 雲四散し、往事 水東流す
  夙志空慷慨、羈魂梦亦愁  夙志 空しく慷慨し、羈魂 夢も亦た愁ふ
◯音書 音信。たより。◯天末 天のはて。杜甫に五律「天末に李白を思ふ」詩がある。◯悠悠 はるかなさま。『詩経』鄭風「子衿」に「青青たる子が佩、悠悠たる我が思ひ」と。◯旅宦 故郷をはなれて仕官する身。◯遅暮 晩年を迎える。戦国楚・屈原「離騒」(『楚辞』巻一、『文選』巻三十二)に「れ草木の零落し、美人の遅暮を恐る」と。◯関山 国境くにざかいの山々。◯阻脩 険阻で遠く離れている。西晋・張載「擬四愁詩」(『文選』巻三十)に「我が思ふ所は営州に在り、往きて之に従はんと欲すれども路阻まれながし」と。◯旧游 昔の(勉強)仲間。◯雲四散 友人同士が雲のようにちりぢりになること。語は、白居易の五古「初めて元九に別れし後、忽ち夢に之を見る…」詩(『白氏文集』巻九)に「昨夜雲四散し、千里月の色を同じうす」と見える。◯水東流 水の流れのように逝きて帰らぬこと。李白の雑言古詩「夢に天姥に遊ぶの吟、留別」に「世間の行楽かくの如し、古来万事東流の水」と。◯夙志 かねて抱いていた志。◯羈魂 他鄕暮らしの心情。

 夙志を果たせぬまま、いたずらに伊賀の地で年老いてゆくことへの苛立ちや焦りにも似た感情が仄見える。
 その後、東陽が文化4年(1807)冬、51歳で津に召還されて以降の作として五律「次韻して平井可大に答ふ」(『詩鈔』巻三)がある。

  平生存久要、情好一何濃  平生 久要を存し、情好 一に何ぞ濃やか
               なる
  宦羈東西隔、音書旦暮逢  宦羈 東西に隔たるも、音書 旦暮に逢ふ
  青雲猶壯志、白髪共衰容  青雲 ほ壮志、白髪 共に衰容
  歡晤無期日、臨風思幾重  歓晤 期日無く、風に臨んで思ひ幾重
◯久要 旧い約束。『論語』憲問篇に「久要平生の言を忘れず」と。孔安国の注に「久要は、旧約なり。平生は、猶ほ少時のごときなり」と。◯情好 交情。◯宦羈 仕官して職務に拘束されること。宮仕え。◯歓晤 楽しい語らい。◯臨風 『楚辭』九歌・少司命に「美人を望めども未だ来たらず、風に臨んで怳として浩歌す」と。

 折にふれ手紙のやりとりをして近況は承知しているつもりでも、互いの容貌の変化は実際顔を会わせてみないとわからない。それで三十数年ぶりに再会した際、「し声気ほ旧に依るに非ざれば、相遇ふもいづくんぞ能く古き吾れを識らん」という言葉が思わず口を衝いて出たのである。
 江戸での再会を果たした後、澹所に寄せた詩は、その六十の寿をことほぐ作が最後となった。七律「平井可大の六ちつを寿す」(『詩鈔』巻五)に云う、
  六十童顔尚宛然  六十にして童顔ほ宛然たり
  郷里嬉遊竹馬年  郷里嬉遊す竹馬の年
  經國文章同臭味  経国の文章 同臭味
  通家意氣舊因縁  通家の意気 旧因縁
  偸閑脱却風塵窟  閑をぬすんで脱却す風塵の窟
  乘興携將雪月舩  興に乗じて携将す雪月の船
  身世相忘酒中趣  身世相忘る酒中の趣
  天眞爛漫自神仙  天真爛漫 自ら神仙
◯宛然 そっくりそのまま。◯竹馬年 晩唐・韋荘の七律「洪州にて西明寺の省上人が福建に遊ぶを送る」詩に「記し得たり初めて竹馬にりし年、師を送りて来往す御溝の辺」と。ちなみに、釈大典の『学語編』巻下、生齢類に「竹馬之戯」を挙げ「七齢」と注するが、これは『類説』巻二十三などに引く『続博物志』に「七歳を竹馬の戯と曰ふ」というのに基づく。◯同臭味 同じ趣味嗜好。中唐・元稹の五古「元和5年、予官罰俸を了せず西帰す……」詩(『元氏長慶集』巻五)に「吾が兄は性霊を諳んじ、崔子は臭味を同じうす」と。◯経国文章 三国魏・曹丕「典論論文」(『文選』巻五十二)に「文章は経国の大業にして、不朽の盛事」と。◯風塵窟・雪月船 金・劉迎の七律「城南庵」詩(『中州集』巻三)に「夢は驚く城郭風塵の窟、興は寄す湖山雪月の船」と。ちなみに、『中州集』には、延宝2年(1674)刊の和刻本がある。◯携将 〈将〉は、動詞の後に置く助詞で、口語的表現。◯身世 白居易の五排「渭村退居、……一百韻」詩(『白氏文集』巻十五)に「憐れむ可し身と世と、此れり両つながら相忘れん」と。◯酒中趣 酒の味わい(晋・陶潜「晋故征西大将軍長史孟府君伝」)。◯天真爛漫 生来の純真な心がそのままあらわれる。

 もっとも、澹所は六十の寿宴を迎えることなく文政3年に59歳で没している。訃報が東陽のもとに直接届くことはなかったのであろうか。その墓碑については、昌平黌での後輩にあたる松崎慊堂(名は復。明和8年[1771]~天保15年[1844])が「澹所先生平井君墓表」(崇文叢書『慊堂全集』巻十)を撰しており、澹所の交友について、韓愈と並び称される古文の大家、中唐・柳宗元の「先君の石表の陰の先友記」(『柳河東集』巻十二)に倣って交友のあった「鉅人勝流」(すぐれた一流の人物)を挙げた旨を記しているが、そこに東陽の名は見えない【資料篇③】。

※平井澹所については、三村竹清「平井澹所伝」(「書菀」七ノ一、昭和18年。後に「平井澹所」として『三村竹清集七』に収載。青裳堂書店、昭和60年)がある。その生卒年に関して、『鷗外歴史文學集 第六巻 伊沢蘭軒(一)』(岩波書店、平成12年)の人名注は、1760―1820とするが、基づくところ不明。
 平沢旭山については、揖斐高氏に「平沢旭山年譜考―明治以後」(『近世文学の境界―個我と表現の変容』Ⅲ文雅と日常「旭山片影」所収、岩波書店、平成21年)がある。
 また南川金渓については、岩田隆氏に「南川維遷伝の研究―一儒者の生涯―」(「名古屋大学国語国文」第29号、昭和46年)「江戸祗役における南川維遷の交友」(『国語国文学論集 松村博司教授定年退官記念』、昭和48年)ほか一連の論考があり、前者には江村北海撰の墓碑が紹介されている。さらに梅村佳代『日本近世民衆教育史研究』(梓出版社、平成3年)に第四章「伊勢国の文人南川金渓の研究」がある。その著『閑散餘録』は『日本随筆大成(第二期)20』(吉川弘文館、昭和49年)に、そのもととなった稿本『金渓雑話』は岩田氏の校訂解題で『随筆百花苑第五巻』(中央公論社、昭和57年)に収める。その他、『菰野町史』(昭和16年刊。名著出版より昭和49年復刻)参照。ちなみに同書には久保希卿・平井澹所の小伝も収める。
 なお、金渓を北海に紹介したという金龍道人に関しては、中野三敏「金龍道人敬雄」(『近世新畸人伝』所収。毎日新聞社、昭和52年)参照。


覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(1)
覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(3)

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