2019年 F1 ロシアGPレビュー

今シーズンの後半戦は三角関係になると考えていた。
即ち、絶対的王者であるハミルトンに対して次世代を担うドライバーが彼への挑戦権を賭けて戦う。
次世代を担うドライバーとは、レッドブルのヴェースタッペンとフェラーリのルクレールである。
2019年のタイトル戦線がほぼ終結したことを考えると、興味はその一点に絞られる。
来るべき2020年シーズン、ハミルトンのライバルとなるのは誰かという、そこのみがフォーカスポイントである。

だが、シンガポールを経てロシアにやってきた(ひどいスケジュールだ)サーカスの一行は、そんな安易な脚本を選ばない。
シンガポールで久々の勝利を飾ったフェラーリのヴェッテルが、この三角関係をぶっ壊す。
久方ぶりの勝ちでヴェッテルに自信が戻ったのか、それとも今のフェラーリはとりあえずこの程度の戦闘力はもっているのかわからない。
予選3位からスタートしたヴェッテルは、ポールポジションのルクレールのスリップを使う作戦でまずは前に出る。
これをしないとサーキットレイアウト的に予選2位のハミルトンをコース上でかわすことは難しいからだ。
ルクレールとしてはタダでスリップを使われるのだから面白くは無い。だから事前にポジションをチェンジすることが決められていた。
それによってルクレール的にもハミルトンの間にヴェッテルという壁ができることになる。
最近のヴェッテルはバトルとなるとからっきしだが、ソチのレイアウトなら壁はかなり有効だ。機能すれば今季3勝目はルクレールに転がり込んでくるはずだった。
ところがヴェッテルはなかなかポジションを入れ替えない。ピットから再三の催促があっても応じない。
ヴェッテルの主張としてはもっとマージンをとらなければポジションを入れ替えるという“作業”はできないということなのだろうが、これはもう一方の視点で見ると裏切りと捉えられてもしょうがない。
結局、ヴェッテルはマシントラブルでリタイア。バーチャルセーフティカーが導入され、あろうことかルクレールはそこでメルセデスにフリーピットを許してしまう。
こうなると勝負ありだ。メルセデスが1-2、ハミルトンは夏休み明け、久々の勝利。
メルセデスはコンストラクタータイトルに王手をかけた。はやければ次戦日本GPで決めることが可能となった。
以上がロシアGPのアウトラインだ。
文章にするとおもしろくもなんともない。フェラーリが自滅してメルセデスが緻密な作戦を遂行。レッドブルは蚊帳の外といった(アルボンの走りは光っていたが)
まあよくあるレースだった。
面白かったのはコンストラクターズ4位を狙い着実な進化を遂げているマクラーレンの走りくらいか。

ヴェッテルのクーデターは恰好の批判の的となった。
ここ数年、フェラーリが陥っているドライバーマネジメント力の欠如。マシンについてはかなりの仕上がりを見せているのが余計に惜しく感じさせるのだろう。
フジのCSではかわいちゃんが激怒していた。
(念のために断っておくが、ルクレールとしては今回のヴェッテルのクーデターは条件付き了承であったので、ドライバー同士ではそれほどの遺恨は無い様子)

ヴェッテルの行いはグランプリファンを怒らせたが、その怒りは果たして正当なのだろうか。
何度も言っているが、ファンというものは無責任な外野にすぎない。正当な怒りなんてものは必要がないといえば必要はない。
美しいドライビングを見せてくれれば拍手をするし、不甲斐なければ文句を言う。
殆どのファンはグランプリに対して何らかのステークホルダーでな無いので、その観戦方法は正しい。
無責任に騒げるのがファンの特権なのだ。

だが、ここで一歩踏み込んで考えてみる。
巷でよく言われる(オールドファンがよく言う)、「現在のF1ドライバーに個性が無い」「ドライバーのキャラがたってない」そこからの
「昔は良かった」の一連の流れである。
この昔というのは、だいたいがセナプロ時代を指しており、ジルやハントやスチュワートのころでは無く、まちがってもファジオやアスカリの時代では無い。
要はF1に膨大な新規ファンが流れ込んだあの時代をメートル原器としての比較論である。
セナプロ時代は確かにキャラクターがたっていた。セナとプロストを中心にピケ、マンセル、ベルガーと枚挙にいとまがない。それは事実だろう。
その時代を懐かしんでの対比として、現在のドライバーたちをクリーンルームで純粋培養で育っているよいこちゃんなどと言って小バカにした態度をとる。

しかし、今回のヴェッテルはそんなよいこちゃんだっただろうか。
仲間を裏切る、チームの方針は無視する、挙句の果てにマシントラブルをおこす(最後のはヴェッテルに非は無いかもしれないが・・)
ここまでの問題児はなかなかいないだろう。
比較するのならジルを裏切ったピローニ、そこまで遡らないと比類するドライバーが見当たらない。
そんな待ち望まれた「キャラ」がたつドライバーが出現したのに、ファン達は意外なほど冷淡であり、その行動に批判的だった。

個人的にはドライバーのこういう行為こそ「人間味」を感じる。
いつかのアゼルバイジャンでこのヴェッテルという男は故意にハミルトンにぶつけたが、これだって褒められた行為ではないが「人間的」である。
マシンのモノコックから溢れ出そうになるほどの激情。
ヴェッテルは今季、うまくいっていないのは事実だ。だが、その現状が彼から「人間的」な部分を引き出している。

だが、そんな彼の感情の発露はグランプリファンには冷たくあしらわれた。
セナプロ時代から30年。ひょっとして飼い慣らされてしまったのは、ドライバーでは無く無責任でいられる筈の我々ファンだったのかもしれない。

世界最速の三角関係は、ヴェッテルによって切り裂かれた。
これもまた人間的である。
グランプリは今も人間臭さが充満している。
我々にはその芳しき香りを楽しむ度量を問われているのかもしれない。

#F1 #レース #モータースポーツ #スポーツ #観戦記 #フォーミュラワン #F1jp
#フォーミュラワン #モタスポ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?