感情にふりまわされない

死はどこにあるのかと言えばやっぱり外側にしかない。
年老いた父をみていてつくづくその様に感じた。

私たちが体験できるのは他人の死でしかない。
自分の死を意識できない。
自分の死を意識できないというのは
幸福なのかもしれない。

死んでしまったら何もなくなる、
そう思うから人は不安になるわけだが

からだが動かなくなるとは
三次元にいる必要がないから
動かなくなるわけで

三次元しか私たちは知らないから
からだが動かなくなれば
「私」はいなくなる
と思い込む。

確かに今このブログを書く肉体はなくなる訳で
鶴木某というものはいなくなる。

だけど肉体を離れた精神は
(目に見えないこれを魂と呼ぶとすると)
なくなるのだろうか?

今このように考えている考えは
なくならない。

なぜなら必ず他の誰かが考えていたこと。
それをまた鶴木某が亡くなったところで
同じことを考える意識は存在するからだ。

だとしたら「私」はいなくなると言いきれるだろうか?

肉体があるから、快、不快がある。

精神だけになれば感情が無くなるからそれらは
伴わない。
感情と言うものは私たちを豊かにすると同時に、
高みに行く足かせともなる。

感情は精神より低い位置にある。

感情のコントロールが出来ることが
精神のレベルアップに繋がる。

自らの目標に到達する為には
まず自分を内観しないとならない。

自分の感情の動きを客観的に分かるようになれば
喜怒哀楽の信号から
自分がどんな状態なのか知ることが出来る。

自分の根底にある気持ちと言うものが
分かってくるとどうやってそこを越えていくか?
対処して行く考え方になっていく。

なぜならその時の感情に溺れていても現状は
何も変わらない。進まない。

三次元にいる人間には時間の制約がある。

人は必ずいつか死ぬからだ。
決められた制約の中での生を約束されたなら
感情に押し流されて立ち往生していることは
時間の無駄になる。

人にはそれぞれの性格があるが、
感情の信号を受けたときに
自分がどの様に考えるか客観的に見えてくると
性格は変えることが出来るのではと思う。

ネガティブな思考であれば、

相手にやられた、自分は悪くない

と相手のせいにするだろう。

そうだろうか?人は互いに影響しあっている。
状況もそうだ。
どんなに自分は被害を受けただけだと
感じていても、自分だけが悪いと言うことはない。

必ずどこか自分にも悪いところがある。
巡りめぐって今の状況になったのだと思うと
被害者意識ではいられない。

それに、気がつかないと相手に対して
ネガティブな感情を抱くのみで
先に進むことが出来なくなる。

ポジティブとは、体験できたどんなことも
自分を変えていく過程にとって必要なものだと
思えること。
困った体験。不快な出来事。悲しい出来事。

これらを沢山出来た人ほど、
他者の気持ちも理解できるようになる。
自分を客観的にみることも出来るようになる。

人間の有限性を考えると感情は
必要であるものだが振り回されてはならない。


まだまだたくさんの記事を書いていきたいと思っています。私のやる気スイッチを押してくださーい!