欲望と向上心の差とは何か?

そもそも欲望とはなにか?

例えば

「有名になりたい」

「お金持ちになりたい」

「異性にモテたい」

などなど。

漠然としていて自分が欲しいもの。

「欲しく望む」とは字のごとく。


それでは向上心とは?

こちらはもっと具体的なもの。

例えば先ほどの欲で言えば

「作品で有名になりたい」

「遊んで暮らせるくらいお金持ちになりたい」

「黙っていても異性が声を掛けてくるようにモテたい」

などというように

より具体的になり頭の中には比べる対象が浮かんでいるのではないだろうか?

そして向上心は具体的な比べる対象があるため、それに追いつくために

努力をするのではないかと思う。

人間漠然としていると努力したくても努力も散漫になるだろう。

具体的な例がある場合、設定した目標に近づくための考えや行動が浮かぶ。

だとしたら向上心の方が上等な考え方なのか?と言えば、

根底に欲望があるから具体的な目標が浮かぶのであって、両者はふたごのようなものなのだと思う。

なぜなら、もし向上心が満たされればとたんに欲望は消えて、今までの原動力が失われ努力を止めてしまうだろう。

すると後退が始まる。

努力しつづけることはとても難しい。

上に立ってしまえば新たな目標をたてることが大切になる。

継続するためには自分の今の状態を一度しっかり見極める必要が出てくる。

上ばかり見ていたこれまでの自分の全体像を見直してみることで今の状況がしっかりと把握できることになる。

つまりは客観視が必要だ。

目標に更なる「上の設定がない場合自分のやっていることが誰かの助けや喜びになる考え方が必要なのかもしれない。

「自分の作品で誰かに感動を与えたい」

「お金持ちになる方法を教えてあげたい」

「異性の気持が分かるから、相手が喜ぶことをしてあげられる自分になったから、その方法を人に教えてあげたい」

などなど、自分のことだけでなく成長によって変わった話が出来るようになれば後退もないのかもしれない。

教えることとは学び続けなければ続かないから。

学ぶ側が教える側に近づくため、いつも教える立場にいる人は自身が学び続けなければ教え続けることも出来なくなる。

その繰り返しが向上を続けることに繋がっている。

だから誰かが喜ぶことを考えるのは結果自分の成長に繋がる。

欲望から始まり向上を続けた最終段階とは、「誰かの為、何かの為になること」に行き着くのではないだろうか?

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