ニーチェがなんたるかわたしは知らない
コロナで3月は学校に行っていない次男。
この話は今からひと月前に遡る。
帰宅して夕飯の準備をしていた。
呼ばれるまでPCの前から離れない次男に先に声をかけておいた。
夕飯すぐ出来上がるからもうゲームはやめてちょうだい。
オンラインゲームの結果はすぐついた様子で鍋の出来上がらないうちに次男は台所にやって来た。
やって来たからと言って手伝うわけでもない。
帰りに駅ビルに寄ってきたのだけど、半額になっているのに美味しそうだったから今日は牡蠣と白子の鍋。
その上今日は更に10%割引デーたったのよ。
ちょっと浮かれぎみに私は話す。
最寄り駅には駅ビルは二つあり、更にお惣菜やスイーツが並ぶ駅直結のスペースがある。
いわば激戦区なのだけど、私の行った駅ビルは片側より明らかに客の数が少ない。
私としては適度な空き具合が良い感じなので落ち着くのだが、
いつか無くなってしまうのではないかと気が気ではない。
件の次男だが
いや、ニーチェはいいね。
という。
なんだ突然、と思うも話したかったのだろう。
なんでも倫理の時間に哲学もやっているらしい。
彼がニーチェがいいと言うのは、私へのあてつけのようなものなのだと思っているのだが。
ニーチェの何がいいのか聞いてみた。
ニーチェの言ってることって、ちょっと難しいとこもあるんだけど、今こうして話していることはいつかまた全く同じ状態で同じ会話が繰り返されるんだと言うんだよね。
人はただ在るだけだ。
それだけであって、何か目的があって生まれたりした訳じゃない。
ニーチェはただ人は存在して神が作ったものではないという。
だけど、私の言っている神という存在は宗教の神様じゃない。
そんなものはどうたっていいのだ。
だけど人を、生き物を、この宇宙をも、最初に作ったものがいるのだと思っている。
きっと私と同じ考え方をした人が今までもいたろうし、これからもいるだろう。
それこそ、息子のいうところの、思想は繰り返されるなのだ。
ニーチェの言う「超人」というのは
何かに頼るのではなく、自分自身の心の声を聞いて行動するってことだろうから、それはやっぱり私がいつも思っていることだし、言っていることだと思っている。
自分自身の判断で全て選択していくことが素晴らしく、そうしたいと考えている次男。
最初のニーチェはいい
と言ったセリフから彼が言いたいことがその事であると私には受け取られる。
誰かのせいにしたり、何かのせいにしたり。
人は自分を正当化したがる。
だから文句が出るが、全て自分が判断したのだと思うと、その先をどうやって進むか自分で考えないとならない。
今の現状は自分が招いたのだ。
どんな結果も自分のやって来たことの結果なのだと受け入れることができればとてもポジティブでいられる。
その中には良いことだけでなく、もちろん最悪なことであってもだ。
多分次男は運命なんか信じないし、神様が与えてさせているなんてのも信じない。
それはそれでいいだろう。
私たちの預かり知らぬ存在は拝んだって願ったってただみているだけだ。
わたしはそう思っているから、ある意味、彼と同じ考え方だと想っている。
まだまだたくさんの記事を書いていきたいと思っています。私のやる気スイッチを押してくださーい!