思考は進化する
誰かのために生きること。
それってどうしたらいいのだろうか?
良く聞くけれど本当にどのぐらいの人がそうしているのだろうか?
誰かのためになるには己で考えブレない己がいないとならない。
どんな状態でもこれだと突き詰めたものがあれば周囲がどうであろうと続けることをやめない。
自分で決めたことが続けられない人は自分を裏切ってしまうのでまず自分のためにならない。
自分がブレたら他者に対してもブレる。
それでは誰のためにもならない。
それぞれの基準があり、それに従って生きる。正しいと思って発信し続ける。
受け手は勿論色々いて、どう受け取ろうが良い訳で受けた人の中で共感する人があればきっとそのことばは相手の中に何かを残すのだろう。
受け手はそこから発展して考え、思考は先へ進んでいくのだろう。
うまく行かないことや辛いことを誰かのせいにしたり何かのせいにするのは良い訳でしかない。
「私は悪くない」
この考え方をしているとき、誰かのために生きるという状態から対局にいる。
周囲がどんな状態であろうと今の自分は自分が作ってきたのだ。
幼い無垢な頃は周囲から形成されても、自分で考えることができるようになったなら自分の選択で物事を判断していく。
「私は悪くない」はいつまでたっても自分は被害者で弱者なのだと言っている。
長い間その様に教え込まれている場合簡単に変えることは難しいだろう。それでも現状をよしとしないなら変わっていくしかない。
物事は捉え方なので
どんな状況であっても捉え方で見え方が変わる。
思考が変わる。
被害者的な考え方は周囲を攻撃する。
自分が悪くないから周りのせいにする。
それではいつまでたっても負のエネルギーを身にまとい、負の感情に支配される。
感情というものは厄介で、感情に支配されると自分のことばかりでいっぱいになる。
周りが見えなくなる。
自分の感情から離れて自分を見てみると、他者からどう見られているか考えることができる。自己都合でない考え方。
*
ことばを紡ぎながら人類は進化していく。
だけど誰かの言ったことが正しいと信じてその先を考えたり疑ってみないのは良くない。
鵜呑みにしたままではならない。
思考は進化し続ける。
誰かの言った言葉を受け止めたらそれはもっと深く掘り下げて自分のものにしないとならない。
中には耳に痛い言葉もありそこから逃げてしまいたい時もあるだろう。
だけど苦しいときに嫌な言葉だと逃げたものがやっぱり正であればきっとずっとどこかでその言葉と向き合えなかった自分に落ち込むだろう。
私は自分が逃げたから分かる。
逃げていることは楽だ。聞く耳を持たないで自分を変える努力もしないから。
自分が正しいと思っていたことが違うと疑って、他者の厳しい言葉が正しいと感じたのに出来ない場合。
その弱い自分を受け入れて引きずって生きていくしかない。
人は誰をも変えることは出来ない。変えられるのは自分だけ。
引きずって歩く私は相変わらずそんな自分を好きになりきれないのだろう。
その自分、弱い自分も受け入れだから現実はこんな風なのだと受け入れないとならない。
あなたの今いる現実は全てあなたに合わせた現実。
変えて行く力はやはり自分にしかなく、分かった人は努力するだろうし変わっていくのだろう。
まだまだたくさんの記事を書いていきたいと思っています。私のやる気スイッチを押してくださーい!