祖父とメロンパンの記憶
友人のnoteに「大体のものの価値は後から分かる」とあった。それが祖父の記憶とともに綴られていた。僕もその言葉に共感を覚えたし、なにより ”おじいちゃん” という響きに釣られて、自分の祖父との記憶も蘇ってきて、ここに書き留めておこうと思った。
最近、小指を怪我していてキーボードが打てなかった。スマホからでもnoteは投稿できるのだけれど、パソコンで書きたいという謎のプライドがあるため投稿するのが遅れてしまった。
自分の一番端っこ、末端にあるものなのにその機能が落ちただけでこんなにも人間は不便になるのだと落胆させられる。少しニュアンスは違うかもしれないけれど、これも失ってから気づく価値の一つだろう。
今は普通に動くし、そもそもブラインドタッチも、正しいポジションでキーボードを叩けるわけでもないので小指はあまり使わないのだけれど...
さて、本題である僕の父方の祖父(以下、親しみを込めて 「じいちゃん」)の話をしよう。
僕はじいちゃんが大好きだった。だった。そう、大好きなじいちゃんは僕が高校1年生の時に死んだ。16歳にして、人生で初めて「身近な人の死」を経験した。
何の病気かは覚えていないが、治療中の痛みにもがく姿、記憶が曖昧になっていき家族を家族と認識できず怒りに任せて他人に当たり散らす姿に、もう僕の知っているじいちゃんの面影はなかった。それでも、体調のいい日は僕を孫だと認識してくれて嬉しかった。じいちゃんのそばで嬉しさと哀しさの混じった涙を流しながら売店で買ったバニラのアイスクリームを食べた。めちゃくちゃ甘かった。
それから数日後、じいちゃんは静かに息を引きとった。あの病室のドラマみたいな現実感のない空間を忘れることはない。どんなに医療が進歩しても人間はいつか死ぬ。高校生になってそんなことは頭ではわかっていたけれど、いざ自分がその場面に遭遇すると頭が追いついてこなかった。
それでも時間は無慈悲に流れすぎていくし、葬式を終えてからは県外の高校に戻らなければならなかったので、いやでも日々のルーティンに引き戻された。それからの日々でサッカーを辞めたいと思う時期は何度も訪れたけど、のらりくらりと続ける道を選び続けてきた。その決断にじいちゃんの記憶や存在が少なからず影響を与えていたと思う。
小学校から中学校までの多くの試合にじいちゃんは応援にきてくれた。特に中学校の途中からは通うのに車で30分ぐらいかかるクラブに所属していたため、バスと自転車で乗り継いでいけない時間帯などは送迎をしてもらっていた。
小学校までにいたチームでは県大会で勝ったことすらなかった。家はどちらというと現実主義の家庭であり、もちろんプロサッカー選手になれるなんて思っていなかっただろうし、祖母からも「好きなことで飯を食っていけるほど人生は甘くない」と言われることも多かった。そんな時でも、じいちゃんだけは僕のことを信じて、そんなことを言うなと毎回否定してくれた。子どもは意外と大人が言った言葉を覚えているものだ。
学校のホームルームが終わってすぐ帰宅し、じいちゃんの待つ車に乗り込むと、いつもお腹の空いてる僕のために補食を用意してくれていた。手作りのおにぎりの日もあったが、大抵は「メロンパン」だった。
はじめは練習前に口がパサパサになるな... とか思いつつ渋々食べていたけど、じいちゃんも工夫してバリエーションを変えてくれていたりして、今日は何かな?チョコチップメロンパンかな?みたいに楽しみになりつつもあった。
練習場に着くと、いつも「頑張ってこい」と声をかけてくれて練習が終わるまで待ってくれていた。両親は共働きだったため、じいちゃんがいなければ、そのクラブに入ることはできなかったし、そのあとの県外への高校進学にも繋がらなかったため、じいちゃんの存在は大きすぎるぐらい大きかった。
じいちゃんがいなければ間違いなく今の僕はいない。存在はしているだろうけどサッカー選手としての僕はもういなかった思う。(じいちゃんに限らず、僕にはそんな人が多い)
じいちゃんだけが最初から最後までプロになれると信じてくれていた。自分を信じてくれる存在の大きさは失ってはじめて気づく。せっかく掴んだこの舞台、じいちゃんの想いも勝手に背負わって戦い抜く覚悟でいる。
最近はメロンパンを食べる機会がグンと減った。パン屋さんのメロンパンはもちろん美味しい。海老名のメロンパンも大好きだ。
でも、違う。手作りが正義とは限らない。スーパーやコンビニの100円のメロンパン。あれがいい。たとえ添加物がたくさん入っていようが、身体に悪かろうが関係ない。僕にとってはあれが一番エネルギーになる。
今年もサッカー選手として続けられている。
今日はメロンパンを買って帰ろうと思う。
いつも応援ありがとうございます!!