見出し画像

読まれたくはない、ごく個人的な、ある不安ごとについて

将来が不安だ。そう言うと、誰かが「あなたは大丈夫でしょう」と言ってくれる。セカンドキャリアが不安だ。そう言うと、誰かが「何か仕事あるでしょ」と言ってくれる。みんなが口を揃えて言ってくれるということはもしかしたら本当に大丈夫なのかもしれない。選ばなければ何とか仕事があるのかもしれない。食いっぱぐれないのかもしれない。生きてはいけるのかもしれない。でも責任を伴わないアドバイスに触れるたびにより一層不安に駆られる。この感情はどうしたらいいんだろうか。

じぶんから、20年以上続けてきた「サッカー」を引いたら何が残るんだろう。何も残らないんじゃないか。何も残らないどころか、もともと持っていたものの少なさを考慮すると負に振り切れてしまうんじゃないか。そう考えることが増えた。結局はサッカーしかしていないわけで、それはいわゆるビジネスの現場に応用できるほど汎用性を伴ったスキルでは全くと言っていいほどない。はたまたプレイヤーを辞めたあとの残りの人生でまたサッカーで飯を食っていけるほどの自信も今の僕にはない。

Jリーグに入ってからずっとベテランの人の話が好きだった。特に引退後何をするのか、どんなビジョンがあるのか、どんな人生を歩んで行きたいのか、またそれに関する外部因子の影響など、ことあるたびに質問してきた。聞くのが楽しかった。同世代の未来はまだまだ明るく、また明るく見えているだろうためこういった辞めた後の話はしづらい。入ったばかりなのに出たあとのことを考えても仕方がないと思う人もいると思う。終わりを考えながらプレーすることは楽しいのか、と。でも考えてしまう、思考に上がってきてしまうからこればっかりはどうしようもないのだ。

僕の人生は保険をかけることの連続だった。保険がかかっていないと思いっきり楽しめなかったという言い方もできる。東福岡もサッカーでダメだったように勉強のクラスにわざわざ入ったし、筑波を選んだのも就職活動で有利そうだと思ったからだった。大学では教員免許も取ったし、プロの練習参加も経験しておきたかったし、東京での就職活動も経験しておきたかった。「何とかなりそう」という御守りがないと一歩を踏み出すことができなかった。それも1つでは足りず2つや3つぶら下げることで安心感を保っていた。

シーズン終盤のいま、色んな想いが渦巻いている。チームメイトや他の同業のサッカー選手のことがどんな気持ちでプレーしているかはわからない。これは僕の問題だ。そして今抱えているポジティブとは言えないドロっとしたこの気持ちは未来で必ず美化される。自分自身で美化してしまう。良い思い出だったと昇華されてしまう。それでいいのだろうか。僕は文章であればある程度外にさらけ出すことができる。言葉にする必要はないのかもしれない。不利益もあるかもしれない。でもあえて僕は言葉にして残しておきたい。それを読んでどう思うかは読んだ人がそれぞれ反応すればいいと思うし、特に何も感じかったという人がたくさんいてもいい。

何が不安なのか。まずは来年仕事が無いかもしれないということ。20年もやってきたのにそのスキルも経験も使えなくなってしまう。そんなことが僕にも大いにあり得るという不安感。ごく稀に、安易に指導者になればいいといってくる人がいるがそんなに甘くはないことを僕は知っている。学校でもそうだったじゃないか。賢くても頭の回転が速くても教えられない、他人にうまく伝えることが苦手だった子はたくさんいたじゃないか。「できること」と「できることを教えられること」は大きく違う。僕はプレイヤーとして20年を過ごしているためプレイヤーとしての経験値はあるが指導者の経験値は皆無である。プロサッカー選手を辞めてもそのままプロ指導者にはなれないのだ。

他には何が不安なのか。このまま続けていていいのかという不安がある。これは結構な割合を占めている。そういえば第二新卒というワードをあまり聞かなくなった。具体的に何歳までを指しているのか、対象がどこまでなのかを知らないが自分が当てはまっていないことは何となくわかる。ビジネススキルも一般教養もない人間が、27歳で独りで社会に放り出されて何ができるんだろう。今までスポーツを通して培ってきた経験、上下関係がしっかりしている等のコミュニケーションスキル、そんな経験は本当に役に立つんだろうか。今の僕にはあまり想像できない。ただただ、怖い。仕事がなくなるのが怖い。

怪我も怖い。チームメイトの何人かは膝をやってしまった。全治8ヶ月というのは本当に言葉では表せないぐらい本人は辛いだろう。この辛さは外部の人間には想像できない。それでも彼らは辛さやキツさを表には出さない。本当にすごいと思う。他チームからも毎週のように大怪我のリリース文が流れてくる。明日は我が身。そして今の時期に大きな怪我を負えば致命傷になる。輝かしい実績のない人間をシーズンのスタート時点で怪我人として新規で取ってくれるほどこの世界は優しくない。シーズンも終盤に差し掛かってきて、現時点で痛いところを抱えていないサッカー選手はほとんどいない。痛いぐらいでは休めない。体が動く限りはみんなごまかし誤魔化し練習に励んでいる。トレーニングを休むのも怖い。代わりはいくらでもいるのだ。だからやれる限りはみんなやっている。でも我慢しすぎてそれが大きな怪我に発展する可能性もある。その微妙なラインがむずかしい。勇気を出して1週スキップする方法もある。とにかくこのバランスが難かしい。

不安は尽きない。あげればキリがない。ここには書ききれないこともたくさんある。でもどうだろうか。万が一、今の状況から不安が全くなくなったする。それでサッカーに向き合いやすくなるだろうか。もしかしたらめちゃくちゃハッピーかもしれない。

いや、もう一度立ち止まって考えてみる。次のキャリアや選択肢が決まっている選手のプレーは本当の意味で観ている人の心を惹きつけるのだろうか。心の安定の担保としてキャリアの保険をかけた人間のプレーはお客さんの心に響くのだろうか。ここであえて強調しておかなければならないのは、「次のキャリアがあること」というのは仕事しながらサッカーをしている人と決してイコールではないこと。サッカーよりも本当にやりたいことではなく、将来が不安だからという理由で「次のキャリア」を選択肢として用意している、という意味である。これは自分の不安を誤魔化して、自分の人生から逃げてしまっているような気がする。実は2年前の今頃、僕もそんな一人になりかけていた。シーズン中に必死に次の仕事を探していた。いくつか雇ってくれそうなところにもアプローチしたり声をかけたり自分に合う職業を探していた。出れなくなって契約が切れそうで焦っていた。最終的に全部諦めた。そうすると最後の3試合でチャンスが回ってきた。そういうもんなのだろう。

今、僕には「不安という武器がある」と捉えられるかもしれないと思い始めた。僕はたくさんのことが不安で、これはプレーヤーを続ける限り消えないだろう。でも、これは人の心を動かす武器になる気がする。少なくとも観戦にきている人に対して大きな効果を発揮するんじゃないかと思う。観にきてくれる人で来年や数ヶ月後に仕事が無いかもしれないという不安に駆られている人は少ない。その人たちには本業の仕事があり休みの日やわざわざ休みをとって応援にきてくれている。もちろんその人たちと同じ境遇で闘うことを否定しているわけではない。僕も仕事をしながらサッカーしている素晴らしい人間がたくさん思い浮かぶ。でもプロサッカー選手に関していえば、その将来への不安さを武器に、お客さんに対して「この人たちは今日の試合、今日の結果、今日のプレーに賭けている。もしダメだったら来年サッカーをしていないかもしれない。プレーを見るのが今日で最後かもしれない」と訴えかけることができる可能性がある。これは大きな強みなのではないだろうか。書きながら今はそう思えるようになった。

それでも怖い、ただただ怖い。でも保険はかけたくない。僕はあのときからサッカーに自分の人生をベットしてきたし、まだ保険をかけておりたくない。もちろん来年の保証はない。でももうあとには引けない。引きたくない。そうやってプレーするからこそ響くものがあると信じてる。誰かに届くと信じてる。残りの試合、後ろを振り向かずにしっかり走り抜きたい。たとえゴールテープがなかったとしても。

みつを


いつも応援ありがとうございます!!