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「サッカーをしている自分」は「本当の自分」か?

「サッカーのときの自分」は「本当の自分」か?

何か特定のものに取り組んでいるときの自分と普段の自分との間に違和感を感じたことはないだろうか。僕はこのギャップがずっと心のなかに疑問としてあった。

スポーツをやってきた人は競技中に性格が変わったかのようにプレーする選手を見たことがあるかもしれない。僕はどちらかと言えばそのように分類されるタイプだと思う。

サッカーとは全く違うコミュニティの友だちが試合を観にくると『普段と雰囲気が違うね』と言われることが多い。競技を続けるなかで、この「普段の自分」と「競技中の自分」とのギャップに悩むことも多くあった。

しかし、ある本で紹介されていた考え方を知り応用することで少し前に進めた気がした。同じようなギャップに違和感を感じたことがある人に読んでもらえたらなと思いまとめる。(少数派であるのは間違いない)

その本とは『私とは何か――「個人」から「分人」へ 』である。2012年に発行された本なので知っている人もいるかもしれない。(著者の平野啓一郎さんの小説「マチネの終わりに」「空白を満たしなさい」も面白いのでぜひ)

この本では、それぞれの人間を表す基本単位である「個人」から、ひと回り小さくした「分人」という新しい単位について触れている。

分人=対人関係ごとに見せる複数の人格
個人=分人の集合体
個人=対人関係ごとに見せる複数の人格の集合体

概要は上記の通り。簡単に説明すると、個人としてたった一つの「本当の自分」というものは存在しなくて、対人関係ごとに生じる複数の人格(=分人)が、全てどれも「本当の自分」であるということだ。

冒頭の問いに戻って当てはめてみると、このようになる。

「サッカーのときの自分も、本当の自分である」

こんなにも中身のない淡白な答えに行きついてしまった。結論としてはこれで間違いないんだろうけど、僕はこんな淡白な答えを求めて疑問をもっていたのだろうか。おそらく、違う。

ではなぜこの問いが自分の中でずっと疑問として残り続けていたのかを考えてみる。

そこで、そもそも一致するかどうかそれ自体は問題ではなく、普段の自分と競技の自分との「求められる性格(人間性)における正解」のギャップにあったからだと考えた。

中学生にもなると、小学生から積み上げてきた道徳の授業や親から教育された価値観によって、ある程度善悪の全体像が形成される。あれはだめ、これはいい、といったように。

例えば、代表的なもので言えば、「他人の嫌がるようなことをしてはいけません」「嘘はついてはいけません」といったところだろうか。小学生のときは何度も言われた気がするが、歳を重ねるにつれて理解はできるようになっていった。

一方、サッカーにおいては中学生から学校の部活動ではなく、少し離れた街クラブのサッカーチームに所属し、指導を受けていた。そこではサッカーのいろはを教わった。技術面も精神面も。(あのときレオーネ山口に入っていなければ今の自分が無いことは間違いない)沢山のことを学ばせてもらった中でも印象的だった言葉が、「FWでゴールを取るためには相手DFの嫌なことをしないとダメだよ」「正直者すぎる、もっとズル賢く!」という言葉だ。

と、ここであることに気づく。私生活とサッカーで求められることが正反対ではないか?

どちらの環境でも教えられたことが正しかったのは間違いない。しかし、そのときから次第に、求められた環境・場面によって性格(人間性)をスイッチングしなければならないと考えるようになった。(みんなは自然と無意識的にやっていたのでしょう)

普段の私生活では特にやりたいこともなかったので与えらえれた課題をこなし、社会に適した自分を目指して怒られないように生活していた。

そしてサッカーではいかに勝利するか、どうしたらゴールを取れるか、を念頭におき常に相手DFの考えの裏をかいたり、普段より倍以上の大きな声でチームを鼓舞したり、いつしかサッカー用の自分が形成されていった。

サッカーを続けていくうちにその傾向が顕著になり、なかなかスイッチングがうまく調整できなくなった。切り替えていたことすらも忘れてしまい、いつしか「どれが本当の自分なのか」と問題がすり変わっていたように思う。

このとき、僕には相反するものを同時に自分の性格として受け入れるという発想自体がなかった。だからこそ、どっちもではなく「どっちか」という考え方にしかならないことがこの疑問における根本的な要因だったのだろう。

そして、片方の要素が強くなり、例えばサッカーモードの自分のまま私生活に戻ると、試合に負けたあとは自分という人間を全否定されたかのようにも感じていた。プロの世界にきて思うことはこの切り替えが皆めちゃくちゃ上手い。おそらくこのスキルが高い人が生き残っていくんだと思う。

ここで、もう一つ紹介されていた分人の考え方について紹介したい。

個人を整数の1とするならば、分人は分数
個性=その複数の分人の構成比率

人間は一人ひとり様々な分人を適宜使い分けていて、その構成比率が人それぞれ違うからこそ個性が出るとのこと。それぞれが1として自分の人格ではなく、あくまで1の中の要素という考え方。

なるほど、他人よりはサッカーをしている自分の構成比率が高いかもしれないが、自分の構成要素全てではないし、そのなかの一つでしかないと考えることもできるなと思った。もちろん、失敗は改善するし次によくなるようにはするが、考えすぎてしまう時にはこの考え方は役に立つ。また、成功して上手くいっている時も、その成功も一つの分人の成功だと言えるため、傲りすぎることはなくなる。あくまで、最終的には分人の集合体である「個人」としてみられ、それが問われているからだ。


まとめると、求められることが違うそれぞれの「分人」を自分の中で認め、どれも本当の自分として共存させながら少しづつ育てていくことが大事なことかなと思う。

もし、同じように思っている人がいて少しでも役に立ったなら嬉しい。そして、これが本当の自分なんだと自分を一つの側面に閉じ込めるのではなく、自分のなかの様々な分人をそれぞれ大切にしてほしい。僕も大切にしたい。

サッカーの自分も、誰かと話す自分も、こうやって文章を書いている自分も。

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