今日は父方の祖母の命日。
おはようございます。こんにちは。そして、こんばんは。ターコイズ*ミントと申します。
本日は、タイトル通り、父方の祖母の命日です。そのため、ハイテンションではございません。
…この記事では、祖母が亡くなる前と葬儀の様子について書いていこうと思います。長文ですが、ご覧いただけると幸いです。
私の祖母は、2017年1月8日に78歳で極楽浄土に旅立ちました。まだ80歳にならないうちに…。
あの日の悲しみは今でも忘れられません。
当時は私にとっては初めてのお葬式でした。
…、祖母は優しくおおらかで声が大きく、元気な人でした。
そんな祖母は急に病に罹り、入院することになりました。
もう5年も前のことですが、覚えている範囲で書こうと思います。
私が小学生の頃は、放課後祖母に面倒を見てもらうことが何度かありました。ある日、親が迎えに来るのを待っている時、植物の前で理由はよくわかりませんが、指揮をしていました。恐らく、その時の植物たちが風の影響で踊っているように見えたのでしょう。祖母はその時何と言っていたか忘れてしまいましたが…、悪評ではないことは事実です。
帰る時は私たちを見かけると笑顔で手を振ってくれました。
祖母がまだ元気だった頃は。
しかし、お別れの時が急に迫ったのです。
祖母が亡くなる2日前、私は姉と母と祖母のところに駆けつけました。ずっと眠っている祖母を静かに見守っているところ、祖母はうっすら目を開けました。
私が祖母に会えたのはその日が最後です。
そして、亡くなる前日、母から祖母の様子を伺いましたが、「昨日(亡くなる2日前)よりは会話していたけど、また来るねと言ったら…、ううんって言ってた…」ということでした。翌日、面会開始時間から祖母に会いに行こうと母と決めました。
…ところが、
これからお見舞いに行こうとなった時、
祖母は極楽浄土に旅立っていきました。
父の電話を聞いた母の「おばあちゃんが亡くなったって!!」という言葉で「え!?」と嘘だと思いたい気持ちがありつつ、大急ぎで祖母のいる病院へ向かいました。
そして、駐車場で父、父の家族と合流し、祖母のいる病室へ…。
祖母は息をしていませんでした。
看護師さんたちが祖母のご遺体を綺麗に拭き取ってくださいました。
その様子から、本当に祖母は亡くなったと実感しました。
そんな祖母を見た私たちは泣きました。
あんまりだ。あんまりすぎる。
祖母はもっと生きるべきだったはずなのに、どうしてこんなに早く亡くならないといけないんだ…!?
私は祖母の手をずっと握りました。
許される時間まで。
そして、葬儀屋さんが来室し、祖母のご遺体を運びました。その際、「お願いします…」と涙声で…。ご丁寧に対応していただきました。
祖母が葬儀屋さんの車に運ばれるまでは祖母に付き添いながら移動しました。
私と母は一旦自宅に戻り、翌日の葬儀まで待ちました。母が泣きながら当時県外にいた兄に連絡したこと、洗い物していた姿は今も忘れられません。帰ってきた姉と祖母のことで悲しみながら抱き合ったことも忘れられません。連絡を受けた兄は大急ぎで実家に戻ってきたのでした。
…葬儀1日目のこと。
初めての葬儀でもあり、衝撃が大きかったため、とにかく泣いてばかり。
夕食では、水か麦茶を5杯くらい飲みました。泣きすぎて体の水分がなくなりそうなくらい、号泣していました。
遺族の控室に戻っても祖母のご遺体を見るだけでもう大泣き。私だけ大泣きしてどうするんだ…、という感じですが、どうしても涙は止まりませんでした。
葬儀2日目のこと。
本当に祖母とお別れの時がやってきてしまった。
もっとずっと一緒にいたかった。でも、ちゃんとお別れしないといけない。そうしないと、祖母は安心して旅立つことができないのだ…。
セレモニーホールでの儀式を終えたら火葬です。
祖母が燃やされちゃう。骨になっちゃう。もう二度と祖母の生前の姿が見れなくなっちゃう。
でも、私たち人間は亡くなると燃やされる運命なのです。
…火葬前のお別れをした後、祖母は荼毘に付されました。
祖母の火葬が終わり、私たちはお骨拾いへ。
お骨拾いを終えた後、セレモニーホールに戻り、お昼ご飯を食べて各自解散しました。
…、覚えている範囲はこんな感じです。
また何か思い出したら追記しようと思います。
大切な人とのお別れは突然やってくるかもしれません。
どうか限られた時間、家族と大切な時間を過ごしてください。
皆様がいつまでも元気に過ごすことができますように。
それでは、ここまでご覧いただき、誠にありがとうございました。
次の記事もよろしくお願いいたします。