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感想|『LIGHTHOUSE』:ハイコンテクストな語り、弱者性と強者性

Netflixで配信されている、若林正恭氏と星野源氏が対談する番組『LIGHTHOUSE』。自分は2人の熱心なファンではないが、若林氏についてはエッセイ『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読んで、星野氏についてはラジオの書き起こしを何度か読んで、両者に対して「おかしいことはおかしいと、変にアジテートするわけではなく、時にはユーモアも交えて開陳してくれる、誠実な語り手」という印象を抱いている。ここでの「誠実」というのは、「公正で優等生的である」というよりは、「マジョリティのノリを守るより、自分の思ったことに率直であり、かつ誰かを不用意に傷つけない」というニュアンス。そんな2人の番組ということで、配信開始を楽しみにしていた。

また、対話という形式も楽しみを加速させた。対話には、相手の意思表示や発言によって思考や言語がパチパチっと弾けて拡張していく感じがある。それに議論ほどカッチリしすぎていないし、大人数だと発生してしまう「磁場」「風向き」みたいなものも無い。そんな形式だからこそ、2人の考えていることをもっと深く聴けるのではないか、という期待があった。

そんな期待を抱いて観てみた感想としては、上から目線で申し訳ないが、物足りなかったというのが正直なところだ。2人とも強固なファンダムが構築されており、その中でポジティブすぎない感想を残しておくことは「そう思う人もいるのか~」と思ってもらえる可能性もあるのではないかと思い、書き記しておくことにする。物足りないと感じた理由は、ハイコンテクストな会話であったことと、2人が持つ強者性にある。

ハイコンテクストな語り

まず、2人の対話の内容が、自分にとってはハイコンテクストすぎたことについて。話されるエピソードや、それにもう片方が同意する時の「なぜなら」的な話を具体的に捉えることができなかった。抽象的なレベルで「こう思ったのか~」とぼんやり捉えることはできたが、「だからこう思ったのか!」という理解には至らないタイミングが何度かあった。こういった番組で出演者が話すことには、必ずしも共感すべきとは思わないが、それ以前に「どういうことなのか」「なぜそう思ったのか」ということは理解したいと思っている。

2人は主に、ショウビズの世界に身を置く中で抱いてきた違和感について語ってくれたのだが、その違和感をあまりに具体的に語ってしまうと、特定の個人やグループ、事務所等への批判や非難だと取られてしまう可能性もあるかもしれない。とはいえ、普段から2人のコンテンツにあまり触れているわけではなく、それぞれのざっくりしたコンテクストを理解していない立場としては、ついていくのが難しかった。

また、仮に初期段階でのコンテクストが理解しづらいとしても、相手が「それってどういうこと」と疑問を表明し、それに応答することによってコンテクストがほぐれていくことは大いにありえる。しかし、この2人はお互いに強く共感することが多く、そうした機会もあまり無かったように思う。

このハイコンテクストな対話が番組として成立し、受け手の心に響いている様子を見ていると、彼らが今まで自分の考えを様々な手段で率直に伝えてきて、それによって共感を得てきて、今回も得ていることに凄みを感じる。一方で、そもそも2人が語る内容の理解すら難しかった自分からしたら、この番組は「大まかなコンテクストやノリを『分かっている』人たちが、2人にもっと共感するようなコンテンツ」に思えてしまい、それに何か意味があるのだろうかと鼻白む自分もいる。もちろん、自分のディグ不足・理解不足を棚に上げすぎているので、そこは批判されても仕方無いと思っている。

弱者性と強者性

もう1つは、これはこの番組に限った話ではない気がするが、「結局のところ2人は財も社会的な名声も手に入れていて、圧倒的な強者じゃん」と思ってしまい、なかなかノリきれなかった。

2人は、それぞれが自称するように、学生時代に「イケている」感じではなかったようで、その意味では強者ではなかったかもしれない。そして、強者ではなかったからこそ膨らんだ自意識が他者や世間とぶつかり合って生まれた葛藤を、彼らの才能と努力によって、受け手の共感や感動を呼ぶかたちで表現できているのは本当にすごいことだと思う。

こうして名声も富も手に入れた2人は、もちろんそれらは高いレベルの作品に対する正当な対価ではあるのだが、この世の中において圧倒的に強者になっていると思う。そして本邦においては、日本国籍を持っていて、見た目もいわゆる「日本人」らしい、シスヘテロの男性、これだけでかなりの強者である。それに財力と名声が乗っかっている状態にある2人が、自意識とか、それに付随するモヤモヤとかを語ることに対して「もうよくない?」と思ってしまう自分がいる。もちろん2人が本当にそう感じたり思ったりしたから発信しているのだろうが、そろそろ、その強者であること(や、それについてくる様々な形態の資本)を活用した、何かしら善いことの実践を通じて、「他者」(個人だけでなく、集団や事柄も含む)との向き合い方を新たな切り口で模索していてほしいという気持ちがある。

これも上から目線になってしまうが、肥大した自意識やルサンチマン的なものは、1人でぐるぐる考えていても、常に共感してくれる誰かと話していても、なかなか良い状態に至るのは難しいと思う。自分以外の「他者」に幸せをもたらすことで、強者であることの責任を果たすことにつながるし、自意識やルサンチマンではない、自分を支えてくれる別の柱を手に入れることができるのだと思う。それらから創作できているところに2人の凄さがあるし、「良い状態」は人によって違うし、こういう考え方自体、若林の番組内での言葉を借りると、進歩主義を押し付ける「マチズモ」的なものなのかもしれないけど。

2人が弱者性に由来する語りを続けてしまうのだとしたら、受け手はそれに共感こそすれ、自分が持つ様々な側面のうち強者である面がどこで、その面において強者であることによってどんな責任が生じるのか、省みることは難しい。2人にこうした役割を求めるのはわがままかもしれないが、「弱者性にも向き合い、強者性を手に入れた男性」のフロントランナーとして、弱者性の延命だけではなく、強者性に伴う責任の果たし方についても、語ってほしいと思う。

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