第1400回 準備すればするほど使われない

1、読書記録324

今回ご紹介するのはこちら。

https://bookmeter.com/books/21429700

 渡邉大門編著2023『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の知略」

大学時代の同級生である著者の一人からご恵送いただいたのです!

2、意外とない

史料集の刊行によって一次史料が数多く紹介されるようになったこと、城郭研究が進展したことによって明らかになってきた攻城戦の実態に迫る、というコンセプトでまとめられたという本書。

前者は専門外なので最新の知見を持ち合わせておりませんが、後者、「城郭研究の進展」ということであれば、「縄張り研究」と「発掘調査」という、私でもとっかかりやすい視覚があります。

そこで各章で「縄張り研究(構造の説明や図の提示)」と「発掘調査成果」が取り上げられているかどうかを整理してみました。

第1章 小谷城の戦い  
 令和2年度に刊行された総合調査報告書から縄張図の提示があり、山上と山下でそれぞれ37,000点もの出土遺物があったことなども記述されます。

第2章 信貴山城の戦い
 言及なし

第3章 有岡城の戦い
 参考文献には発掘調査報告について言及あり

第4章 八上城の戦い
 参考文献には城郭関連の資料あり

第5章 大坂本願寺との戦い
 本丸発掘調査で古代寺院の礎石らしきものが見つかったことから、「石山」という地名の由来が考察されています、

第6章 三木城の戦い
 縄張りについて言及あり。

第7章 鳥取城の戦い
 縄張りについて言及あり。直接的に記述はないが、考古学的な調査結果に基づき解説する良質な書籍が多数出版されている、と言及。

第8章 備中高松城の戦い
縄張り、発掘調査成果について言及あり。

第9章 小田原城の戦い
 発掘調査、縄張りについて言及あり。
 武田信玄が攻めた際に焼け落ちてしまったとされる「氏政館」とみられる壮麗な庭園遺構が見つかっていることが言及されています。
 また「障子堀」と呼ばれる城郭の防衛上の工夫について、発掘調査の成果をもとに規模と構造を解説しています。
 また豊臣軍が小田原城包囲のために築いた「仕寄遺構」についても発掘調査で発見されたことを述べています。

第10章 忍城の戦い
 言及なし

第11章 岐阜城の戦い
 言及なし

第12章 長谷堂城の戦い
 言及なし

第13章 第二次上田城の戦い
 本丸の堀から金箔瓦が出土していることを紹介。
 縄張りについても信之時代の図から真田昌幸時代のものを推測している。

第14章 真田丸をめぐる攻防
 言及なし

第15章 大坂夏の陣と大坂城落城 
 言及なし。

予想以上に言及がないものが多かったですね。

それを抜きにして、驚きというか関心高く読んだのは、

第11章の岐阜城の戦い。

織田信孝が滅亡したのち、池田恒興が美濃を領地とし、

自身は大垣城を居城として、嫡男である元助が岐阜城主になった、とあります。

斎藤道三、織田信長が居城としたあの岐阜城に自分ではなく息子を入れる、というのはどういう心理なんでしょうね。

さすがに遠慮したのか、これを機に息子に権力移譲を図ったものでしょうか。

まだ50歳前なのでちょっと早いような気もします。

小牧長久手の戦いで恒興、元助が戦死すると家督を継いだ輝政が岐阜城主となります。

その後織田信長の孫である秀信が城主となりますが、関ヶ原合戦の前哨戦で落城。

その後は奥平信昌が領主となりますが、岐阜城は廃城になってしまいます。

とそこで気になるのは岐阜城落城を聞いた家康が、自分抜きで西軍を撃破することを恐れて江戸を出立した、というのが最近の有力な説だということ。

著者の入江康太氏は

家康の到着前に、福島ら豊臣系武将が西軍を撃破する恐れは十分にあった。もしそうなった場合戦後、諸将に対する家康の発言力は小さなものになるだろう。

としています。これは全くなかった視点でした。

そして私の同窓生がまとめている、小田原城。

豊臣軍の圧勝かと思い込んでいましたが

徳川家康の家臣、松平家忠の日記に「中間」という配下の者が逃亡した、と言う記述があることから、豊臣軍も士気は下がっていた、ということが指摘されています。

そして北条氏の敗因として小田原城に兵力を集中させるために領内各地の城を手薄にしていましたが、

それらの城が落城したことが小田原城内に知れ渡ると、大きく動揺し士気が下がったことが挙げられています。

そして結局

小田原城の攻防戦も秀吉による他の城攻めにみられるように、大規模な戦闘を経ることなく、当主が城兵の助命を条件に降参することで終わりを迎えた。

という説明が要点をとらえていますよね。

籠城側は準備万端で守りを固めているのですから、いかな大軍と言えどまともに攻めたら損害が大きくなります。

準備すればするほど、それは活かされなくなる。

なんだか皮肉ですね。

歴史を知っている現代の我々からすると、真田の上田城のように

いかに戦術的に攻め込ませるか、というところまで考えられたら変わっていたのではないか、と思ってしまいます。

しかし規模も状況も違う戦いですからそう単純なものではないのでしょうね。

3、これからどうする

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

今回詳述した小田原城の戦いも、岐阜城の戦いも、

NHK大河ドラマ「どうする家康」ではこれから描かれるであろう場面です。

それを楽しみにして、時々本書を読み返してみようかと思います。






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