第296回 江戸時代のお墓のはなし

1、職場にご恵送シリーズ 27

『下藤沢II遺跡―宮城県北部における奈良時代の住居跡 江戸時代の墓壙と墓標の調査』瀬 峰町文化財調査報告書第6集

瀬峰町は2005年に近隣市町と合併し栗原市となった宮城県北部の自治体です。

先日ある方にいただいた報告書なので古いものですがご紹介したいと思います。

調査は昭和57年に行われたもので、奈良時代の住居跡と江戸時代の墓が調査されました。

合わせて町内に残る中世の板碑や江戸時代の墓標(墓石・供養塔)についても調査がなされて採録されています。

私の専門に引き付けて後半の江戸時代の話に絞って紹介したいと思います。

2、お墓からみえる社会

まずはお墓の話。墓壙(ぼこう)というのはお墓として使われた穴のことですが、

全部で28基が確認されています。

報告書ではこれらを穴の中から出土した遺物、穴の形、位置関係などで6つの段階に分けています。

古くは17世紀の前葉、最後は19世紀後葉まで300年にもわたって営まれたものだということがわかりました。


この地域の庄屋であった旧家の一族が代々眠る 墓地だったのでしょう。

発掘調査前に移動された墓標の一番古いものは元禄 (1688~1703)と刻まれており、墓壙の上の盛土がなくなる段階と重なることから、墓制 (どのようなお墓を作るのか)が江戸時代の中でどう変化したかをうかがう好資料となりました。

また副葬品とみられる遺物のうちで、気になるのが和鏡。


2号墓壙から出土したものは 「天下一」という銘が入っており、天和二年(1682)に禁止されたことが知られているので、その前に作られたことがわかります。

板碑・墓標については、町内全体、個人の墓地に分け入って108件もの資料を採録しています。

必要に応じて写真・拓本・実測図を付して紹介がされています。

一点だけ紹介すると寛文十三年(1673)の年号が刻まれ、で中央に「南無阿弥陀仏」、上部に円相、下部には蓮華の荘厳がされている豪勢な資料です。


一部個人情報保護のため加工しています。

そしてその成果として、この地域の有力百姓層の間でお墓に墓標を建てることが流行したのが元禄年間だということが明らかにされています。

3、全て資料化するのが理想

お墓の調査というと、ちょっと不気味なイメージを持たれるかもしれません。

今生きている人のご先祖さまとして意識しやすく、生々しい個人情報との関りもあります。

ですが精神世界といいますか、当時の人の信仰形態を調べるのに墓地はもってこいの資料です 。

このnoteでも何度か言及していますが、新しい時代(縄文時代などに比較してという意味で)の文化財でも漏らさず調査をして記録を残していくと、

豊かな時代像が描けることは間違いありません。先学達が残してきた成果を紹介していくとともに、自らも調査を継続していきたいと思います。

#毎日更新 #歴史 #コラム #発掘調査報告書

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