第806回 歌枕としての松島⑧

1、第50段から第56段まで

今週もやってまいりましたこの企画。

Twitterで毎日呟いている #松島百人一首  を一週間分ご紹介します。

Wikiレベルですが作者の経歴の紹介と

個人的な感想を付け足しています。

2、13世期前半うまれの歌人たち

第50段

まつしまのをしまのあまもわかことやそてをくたして物おもふらん

北条時広

北条時村の子で早く出家した父に代わって、引付衆、評定衆、四番引付頭人など鎌倉幕府の要職を務めます。

北条一門でもきっての和歌の名手で、将軍の歌席寄人を任されていたとか。

父の時村も出家した後は親鸞に弟子入りし、如信、覚如と本格的に真宗にのめり込んでいるので文化人気質は父譲りかもしれませんね。

第51段

波かくるをじまのとまや秋をへてあるじもしらずつきやすむらん

津守国助

津守氏は代々住吉大社の神主を務める家柄で、亀山院の北面の武士でもあり、

大覚寺統の歌合で活躍しました。

第52段

心あるあまの苫やも夜寒にて衣うつなり松かうらしま

宗尊親王

後嵯峨天皇の皇子で、鎌倉幕府六代将軍。

11歳で鎌倉に迎えられ、実権のない将軍職であったため和歌の道に励み

御家人出身の有能な歌人を輩出するとともに、自らも『続古今集』の最多採録歌人となるなど熱中していたことがうかがえます。

第53段

ところからあらぬひかりもなさけかな月松島のあまのいさり火

伏見院

後深草帝の第2皇子なので先の宗尊親王の甥にあたります。

和歌の腕前もさることながら日本史上最高の能書帝と評されています。

第54段

つれなくも猶逢うことを松しまや雄島のあまと袖はぬれつつ

遊義門院

後深草帝の皇女、伏見院の妹。

当時天皇家は持明院統と大覚寺統に分裂しており、

敵対していた後宇多上皇が彼女を見染め、盗み出してしまうというロマンスも伝えられています。

二人の間に皇子が生まれたらその後の歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。

第55段

もしほやく煙もたえて松島やをじまの浪にはるる月かげ

後二条天皇

その後宇多上皇の子で大覚寺統を継いだのが後二条帝でした。

若くして亡くなってしまいますが、その短い治世で何度も歌合を催行し、

自ら『後二条院御集』を撰ぶほど和歌には傾倒していたようです。

第56段

またもみつ いまはいつをか まつしまや 身さへをしまに 月ぞかたぶくさらに

覚如上人

昨日の記事でも詳しくご紹介しました。

3、南北朝のあしおと

いかがだったでしょうか。

実はおおよそ生年ごとに並べてご紹介しているのですが

偶然昨日の記事でご紹介した覚如上人も同世代の人物でした。

鎌倉時代の後半、天皇家が二つの系統に分かれて南北朝に分裂してしまう兆しが見え始めたころの歌人たちです。

覚如上人を除くと、京都と鎌倉以外を知らないような貴人たちばかりですね。

もちろん松島も実際には見ていないでしょう。

それでも後二条帝の「藻塩焼く」や伏見院の「漁火」など具体的な光景のように表現されているのは興味深いですね。

それだけ松島の風景イメージが定着してきたことを示してもいるのでしょう。

ようやくこの松島百人一首も折り返し地点を迎えました。

引き続きよろしくお願いいたします。

本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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