第820回 歌枕としての松島10

1、第64段から第70段まで

今週もやってまいりましたこの企画。

Twitterで毎日呟いている #松島百人一首  を一週間分ご紹介します。

Wikiレベルですが作者の経歴の紹介と

個人的な感想を付け足しています。

今週は途中でカウントをし間違ったのでTwitterの段数とズレていますが、ご容赦ください。

2、教養深い天皇から古今伝授の地方領主まで

第64段 松しまやをしまのあまもおしむらん浪ちはるかに月そかたふく

後花園院

前回ご紹介した後崇光院の子で、数奇な運命のいたずらで天皇に即位します。

将軍足利義教の後見を受け、朝廷の権威復活に貢献した人物です。

今読んでいる本の影響ですごく気になっているのですが

それはまた別稿のレビューでご紹介します。

個人的には親子二代で松島の歌を読んでくれているのが嬉しいです。

第65段 松島や松も久しき友なれば千代をかたらふたづのもの声

木造持康

実はこの和歌の作者については調べきれていなくてですね、

住吉社奉納百首という永享9年(1437)に詠まれたものだということから、その頃の木造氏の当主が持康と考えられるから当てはめている、という程度の信憑性に過ぎません。

木造氏は伊勢国司北畠氏の庶流でありながら、同格の扱いを受けるなど格式高い家でした。

第66段 此うらのみるめにあかて松嶋やおしまぬ人もなき名残哉

道興准后

関白近衛房嗣の子で、幼くして出家し、聖護院の門跡、園城寺の長吏、新熊野社の検校など重要ポストを兼任する有力者でした。

文明18年から19年(1486–87年)にかけて、聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国し、その記録を『廻国雑記』という書物にまとめています。

つまり実際の松島を見て詠んだ和歌である可能性が非常に高いということになりますね。

「みるめ」という海藻を詠み込んでいることも非常にユニークだと言えます。

第67段 まつしまやをしまのとまやくれはててゝ猶おもかけにうらかせそふく

東常縁

美濃国篠脇城主ですが、享徳の乱で混乱する関東へ

本家である千葉氏を救援するために赴いたという珍しい経歴を持ちます。

結果として、関東の騒乱は治る気配を見せず、

さらには留守のうちに本領を斎藤妙椿に奪われるという悲劇に見舞われます。

しかしここからが常縁の本領発揮で、

嘆きの和歌を詠んだところ、それを見た妙椿が感動して領地を返還したということ。

にわかには信じがたい話ですね。

ただ、その和歌に対する知識は本物で

古今伝授とよばれる、古今和歌集の解釈についての秘伝を受け継ぐ者となっており、

宗祇という連歌師に伝えたとされています。

第68段 行としをおしまのあまのおとめこは若葉つむへき春やまつらん

冷泉為富

御子左流の和歌の家、上冷泉家の五代当主。

第69段 あふことはいつを限とまつしまや身をうら浪にそてはやつれて

山科言国

山科家は羽林家の家格を有し、代々内蔵頭を輩出して朝廷財政の運営に携わったとされています。

孫の言継も有名ですが、言国も詳細な日記が伝わっており、

連歌、絵双六、将棋、囲碁などの遊芸に熱中したことが知られる他、

応仁の乱期の京都や朝廷、幕府などの動向などを知ることができる貴重な史料となっています。

第70段 恨さへ波にいつまて松しまやおしまぬいのちあふにかへすは

三条西実隆

三条西家は大臣家という家格を有し、実隆も最終的には 正二位・内大臣まで上り詰めています。

先ほど東常縁のところで登場した宗祇に師事し、古今伝授を受けるまでになります。

その才を買われて周防国の大内義隆や駿河国の今川氏親などの有力大名とも親交を深めるだけでなく、

茶道、香道、囲碁に書と多彩な活躍を残しています。

3、世界が広がる

いかがだったでしょうか。

東常縁や木造持康など地方領主が歌人として登場していますが、

その背景には応仁の乱など戦乱を避けて地方に下向する公家たちが増えてきたことにもよるのでしょう。

地方の文化力が底上げされた時代、と言えます。

ただ、もう少し歌枕の地、陸奥は松島まで足を伸ばして

現地を見た上で和歌に詠み込んで欲しかったな、とも思いますが、

准后という高位にある人物も訪れたことは和歌の世界にに大きな影響を与えてくれたのではないかとも思えます。

今後はどんな歌人が登場するのか、もう少しお付き合いくださると幸いです。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


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