第818回 ヒョウタンは縁起がいいね

1、消化不良の石碑調査3

最近多い、石碑の調査経過報告。

なんだかスッキリまとまらないんですよね。

今回もまだネタの種くらいに思って読んでいただければと思います。

詳しい方がいらっしゃったら是非ご指摘ください。

2、駒込の大旦那

松島の誇る名刹、瑞巌寺と紅葉ライトアップで近年知名度が上がっている円通院の二つの寺院の間にいくつか石碑が並んでいるのですが、

気に留める方少なく、寂しいのですが、調べてみると多様な歴史を持っていることがわかります。

そう、本日ご紹介するのは、倒伏の可能性があるから、と片付けられてしまって、もう気軽に見ることができなくなってしまったものですが

この一角にあった石碑をご紹介します。

その名も牛長句碑。

画像1

文字が書かれた部分が一段彫り込まれていて、ひょうたん形になっています。

というのも牛長とは瓢庵とも号した商人の名前。

江戸は駒込で「高崎屋」を営む長右衛門という人物です。

石碑には彼が詠んだ

明けの朝 また見ん松の 笑い顔

という句が刻まれています。

世話人 扇屋弥右衛門
石工 養作
嘉永丑年 卯の花月建之
         顛々書

嘉永6年(1853)4月にこれを立てたと記されています。

世話人の扇屋は瑞巌寺門前で宿を営む老舗です。

実は牛長はこの年、日光山に参拝し、その足で宮城の塩釜と松島を訪れたようです。

それは東京都台東区谷中にある日蓮宗の寺院、本寿寺に残された石碑の拓本が納められていた箱に記されていました。

拓本と箱書き

箱書には「瑞巌寺」ではなく「五大堂」と記されていますので、造立されてから何度も場所を移動しているのかもしれません。

ちなみに日光山の大日堂にも石碑を建てたようですが、明治35年の洪水で流されてしまったとのこと。

塩釜の法蓮寺の境内に建てられたものは現在でも見ることができます。

画像3

法蓮寺は塩竈神社の別当を務める真言宗の寺院で、明治の廃仏毀釈の影響を受けて廃寺になっています。

どこも波乱万丈の来歴を経て今に残されているのですね。

ちなみに高崎屋は江戸時代から代々続いている酒店。

寛政から天保期にかけて現金安売り商法で大繁盛し、追分の本店のほか中店・南店など確認できただけでも14の支店・分店を設け、小網町の南店は地廻り酒問屋として営業していました。また、両替商も営み、幕府に1千両の御用金を2回も上納するなどした大店だったとのこと。(文京ふるさと歴史館Webより)

【参考文献】

瑞巌寺宝物館1989『芭蕉と松島 ―句碑にみる芭蕉思慕の俳人たち—』

池上本門寺霊宝殿編2018『高崎屋と本寿寺 江戸の豪商髙崎屋の歴史と信仰』 江戸の豪商髙崎屋の歴史調査委員会

3、なぜ瓢型か

いかがだったでしょうか。

謎の瓢箪型の石碑は

自ら瓢庵と号してしまうほどヒョウタン好きの豪商が作らせたもので、

近くは塩釜にも同じ人の手による石碑がある

ということが明らかになりました。

とはいえ塩釜の石碑は瓢型になっていません。

なにか意味のある違いなのでしょうか。

松島の扇屋さんとはどのような関係だったのでしょうか。

いくら大旦那だからといって費用を奮発すれば依頼されて石碑を作って差し上げる、

というところまでビジネスライクでいくでしょうか。

商売人同士意気投合したとか、もともと遠隔地とはいえ取引先だったとか

いろんな可能性があるかと思います。

今後も石碑の調査は継続していきますので、もう少しお付き合いくださいね。

本日もありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?