第807回 九州都城から訪れて雪と月を詠む

1、石碑調査途中経過報告

先日投稿した五大堂付近の石碑。

さらにまだ解釈しきれていない石碑があります。

画像1

独特の書体で「松島雪月記」と題されたものです。

こちらも備忘録的に紹介してきたいと思います。

2、九州から北の大地へ

前回同様、松島町史に翻刻(活字に起こす)されてはいるのですが、

一文字ずつ現物と照合するのはこれからなので一部誤りもあるかもしれません。

これによると文末に

文政十二屠維赤奮若臘月上浣
薩藩日向霧陽都城秀山荒川儀一伴元士良撰並書

とあります。

順を追って読み解いていくと

文政12年は西暦1829年、江戸時代の後期ですね。

屠維は己、赤奮若は丑の別称なので十干十二支で文政12年を装飾しているということになります。


さらに臘月は12月のこと、上浣は上旬のこと。

薩摩藩の都城からきた、荒川儀一という人物が文字を選び、書き記したようです。

都城は室町時代から北郷氏という島津氏の分家が治めるところで、

江戸時代に入っても「私領」として自治性の高い土地だったようです。

ミヤギでいうと角田の石川氏や涌谷伊達氏など一門が地方を治めていたのに近いのでしょうか。

荒川儀一は寛政12年(1800)の生まれで、

江戸の昌平坂学問所で学び、当時学頭であった佐藤一斎の下には山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠など幕末に活躍した人物たちが集っていました。

地元ではのちに明道館と呼ばれる藩校、稽古所の講師を務め、

都城島津家の22代島津久倫の命で始まった『庄内地理誌』の記録奉行として父儀方と共に名を連ねています。

儀一は文政12年に陸奥を旅し、

青森県中泊町小泊では12箇所の景勝地で七言絶句を残しています。

こちらは秋、となっていますので、その帰りに松島に立ち寄ったのでしょうか。

と思いきや松前に渡って数年をそこで過ごした、との記述もあり

もう少し調査が必要です。

3、松月楼からみる月と雪

松島で詠んだ漢詩も石碑には刻まれています。

漢詩は勉強中でまだまだですが、むりくり意訳すると

松乎島乎雪乎月 (松や島や雪や月)

舟尾楼頭描不摸 (船からも高楼から見ても描き写すことはできない。)

若使連仙酔東海 (もし東海のいるという仙人に使いを送ったならば)

飄然倩鶴負西湖 (鶴は飄然として西湖に渡る)

翠嵐自尽千松島 (千松島の青々としたたたずまいを尽くすせば)

髣髴仙娥粧鏡中(月にいるという仙女が鏡に向かって化粧をしているかのようで)

晴好雨奇帰雪月 (晴はもちろん、雨の景色も素晴らしい雪と月には) 

爛銀推裏秘清風(眩いばかりの輝きと涼しい風を感じることができる)

…もっと勉強します。

間違えているよ、というコメントもお待ちしています。


それにしても九州から陸奥、蝦夷地までよく旅をしたものだと思います。

ちょうど江戸留学中期間だったのでしょうか。

しかも秋から冬にかけての険しい時期。

そういえば吉田松陰も同じようなルートで北行きしていましたね。

幕末は北の国境できなくさいトラブルも多かったので最前線をみたい、というトレンドがあったのかもしれませんね。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。



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