第815回 考古学者人物伝その1 小林行雄

1、弥生土器と銅鏡の権威

以前紹介した、『考古学研究』67-1よりもう一つ話題提供として

春成秀爾2020「小林行雄「きしゃと民家」を読む」を取り上げたいと思います。

これをきっかけに考古学者の人物伝をシリーズかしていきたいところ。

せっかくなので、主たる研究業績をストレートに紹介するよりも

知られていないエピソードなどを主とした変化球的な記事にしたいと思います。

本稿でいえば、九州から近畿地方まで共通する弥生土器を見出して「遠賀川式」という型式を設定したことや

三角縁神獣鏡など古墳に副葬されていた銅鏡が共通の版型から作られていたことを見出して大和王権が各地を掌握していく過程を探ったことなどについては

他に譲って深掘りしない、ということになります。

むしろ建築に造詣が深いという点からの考察についてご紹介していきたいと思いました。

2、学史を読み解く

春成が紹介する「きしゃと民家」は1934年4月発行の『ドルメン』という雑誌に投稿された随筆で、小林は22歳の頃でした。

神戸から岡山までの鉄道の車窓から見える藁葺き屋根の民家の棟の型が変化していくことに気づき、それを考古学的な手法で検討したものです。

春成は後述するように学史研究の中で小林についても相当調べており、

鉄道の旅へ同行したのは第一神戸中学校の同級生二人で、

発行されたばかりの梅原末治『讃岐高松岩清尾山石塚の研究』を懐中に

現地を見ようと思い立ったのだ、と見てきたように語ります。

さらに、随筆では車窓からの観察だけで書いたように装っているものの、

実際には十分な調査経験と蓄えられた知識に基づいてなされた作品だと指摘しています。

さらには小林が一時期文体までも真似した、というほど尊敬していた柳田國男が『秋風帖』という随筆集を半年前に出版しており、

その中に「屋根の話」という一編があることに注目し

その影響下で「きしゃと民家」が執筆されたのではないか、と踏み込んでいます。

3、小林行雄の歩み

斎藤忠著『日本考古学人物事典』によると


小林行雄は明治44年兵庫県神戸市の生まれで、
1935年、24才で京都帝国大学の助手として迎えられます。
森本六爾とともにも『弥生式土器集成図録』をまとめ、
京大では濱田耕作、梅原末治の下で報告書に優れた図を掲載している。
代表的著作に『日本考古学概説』や『古墳時代の研究』がある。

同じく春成秀爾の『考古学者はどう生きたか』にも

小林の経歴について、

1932年に神戸高等工業学校建築科を卒業後、7月まで同校の副手を勤め、

大阪市平野町にあった建築設計事務所に入っていることが紹介されています。

建築設計のスタイルとしては

過去の建築様式を参照し、装飾の多い設計をするようにした

と本人が語っていた言葉が採録されています。

また同書の「あとがき」には直接小林にあった時の印象が記されており、

本当に寡黙な人であった、とのことでした。

4、ようやく思い出した学生時代の宿題

論文中の注の中に京都帝国大学の東洋史教室助教授であった田村實造が

現在の中国内モンゴル自治区にある遼帝国の慶陵を発掘調査することになり

地下宮殿ともいうべき巨大な建造物の測量をするのに、考古学者で建築にも造詣が深い人

という条件で同行を依頼されたエピソードが紹介されています。

小林は考古学を研究するにあたって建築はもちろん民俗学など多くの学問の成果を貪欲に取り入れていました。

列車の窓から見える景色からでも研究対象を見出し、春成の言葉を借りれば

歴史性を内包する文化現象の地域性

を明らかにしようとする姿勢には学ばないといけないな、と思いました。

翻ってみれば、私の学部時代の恩師は小林行雄の晩年の弟子にあたる方で

ゼミ旅行などで同行する際に似たようなことをおっしゃっていたことを思い出しました。

移り変わる景色から何がわかるか考えてみてごらん。

そんな言葉をかけてくれていた気がします。

15年以上経ってようやく宿題に着手した出来の悪い学生の気分です。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。




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