第435回 もう一つの聖地
1、巡礼型霊場について
先日、本業の展示企画関係で下書き的なものを掲載しました。
今回はその続きの話をしたいと思います。
現代でも「聖地巡礼」というように
聖なる場所というのはいくつもあって、それを順繰りに巡ることで功徳がある
という考え方は理解しやすいのかもしれません。
少なくとも霊場に骨の一部や髪を納めることよりは受け入れ安いでしょう。
このような形の霊場をとりあえず「巡礼型霊場」と呼んでおきます。
2、巡礼のあゆみ
巡礼型霊場の始まりは平安時代の熊野詣に遡ります。
熊野とは現在の和歌山県に位置する霊場で
本宮・新宮・那智の熊野三山で成り立っています。
神仏習合の思想により、本宮は阿弥陀如来、新宮は薬師如来、那智は千手観音と同一視され、
浄土思想に染まった皇族や貴族が次々に参詣するようになります。
今日の都からは往復1ヶ月もかかるというのに
白河院から後鳥羽院までの100年間には90回以上の御幸があったとも言われています。
なにが上流階級の人々をそこまでかきたてたのかは論ずる力はありませんので別稿を期したいと思いますが、日本における巡礼のはしりであるということは言えるでしょう。
続いて知られるのは西国三十三観音巡礼。
大和国(現在の奈良県)長谷寺の徳道上人があるとき病で生死の境を彷徨った際、
閻魔大王に会い、人々を観音信仰に導くことを命ぜられたことに発していると伝えられています。
当初はなかなか人々に受け入れられず、
広く知られるようになったのは花山天皇の御代。
そう言えば熊野詣を初めて行ったのもこの天皇でした。
ただ実際に書物で観音巡礼を行っていたことがわかるのは
少し時代が下って滋賀県の三井寺(園城寺)の僧侶、行尊(1055〜1135)。
ちなみに今年の日本遺産の認定ストーリーの中にも選ばれていますので
これから専門サイトやパンフレト、PR活動などが行われていくことかと思います。
西国で盛んになった巡礼のスタイルが
関東にも広がり、源頼朝が発願したという「坂東三十三観音」、
さらに「秩父三十四観音」を加えて日本100観音と呼ばれたこともあったようです。
また有名なところでいうと四国のお遍路、八十八ヶ所の札所を廻る信仰が生まれたのは室町時代頃と言われます。
ちなみにこちらも日本遺産。
江戸時代になり、庶民も「巡礼」という名目であれば旅をすることができるようになったことから、各地で同様の巡礼地が整備されていきます。
保科正之が定めたという会津三十三観音も日本遺産。
今回展示企画に盛り込む奥州三十三観音も確実に遡れるのは江戸時代の前半頃までです。
3、人々は何のために巡礼するのか
お遍路で参詣する寺院のことを札所と言いますが、本来は巡礼したことを示す札を納めていたことからそのように呼ばれます。
何年何月何日にどこどこから来た、だれだれが観音さまの功徳を受けるために参詣しました
みたいな文言を木札に書いて収めながら巡礼していく、そのようなスタイルです。
納骨という1ヶ所に収斂していくような信仰形態もあれば、放散していく巡礼のような信仰形態もあります。
その転換点はどこにあるのでしょうか。
単純に時代が中世から近世に変わったから形態が変わってしまったのでしょうか。
そのようなことを考えるきっかけになるような展示を作ろうを思っています。
ぜひご意見などいただけると嬉しいです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?