第813回 歌枕としての松島⑨
1、第57段から第63段まで
今週もやってまいりましたこの企画。
Twitterで毎日呟いている #松島百人一首 を一週間分ご紹介します。
Wikiレベルですが作者の経歴の紹介と
個人的な感想を付け足しています。
2、二条家VS京極家
第57段 まつしまやをしまかいそのありあけに月をのこしてちとりなくなり
公順
文化人として名高い三条西実隆の子で、出家して東大寺に入ります。
長男なのに出家してしまったために同母弟の公条が家を継いでいます。
余程世を儚むことがあったのでしょうか。
それとも父との対立かな。
和歌は御子左流の二条為世に学んだといいます。
第58段 散りぬべき雄島が磯の紅葉ばに荒くもよする沖の波かな
正親町公蔭
正親町家は羽林家に位置し、一時期は京極為兼の養子に入っていたこともあるので、先に紹介した公順とは対立する派閥に属することになりますね。
公蔭の妻は足利尊氏の妻と姉妹で、足利将軍家と北朝(持明院統)の関係を結びつける存在としても重用されていたようです。
第59段 誰ともなき別のかすを松島やをしまの磯の涙にそみる
宗久
生没年も不明ながら、九州探題今川了俊の使僧として活躍しており、豊後の大友氏の縁者ではないかとされています。
京都から関東を経て奥州を旅して、紀行文『都のつと』にまとめています。
珍しく実際に松島を訪れたことが確認できる歌人です。
第60段 海人の住む雄島が崎のそなれ石にたえずもかかる沖津浪
二条為忠
先に名前の出た二条為世の孫に当たります。父為藤が早世したため、従兄弟の為定が御子左家の当主になります。
第61段 うき名のみをじまのあまの夕煙たてじとすれば浦風ぞ吹く
六条有光
六条家は村上源氏久我家の庶流で、祖父有房が二条為世から歌道の伝授を受け、父有忠もその伝統を受け継いでいました。
有光自身は本家たる久我家に適任者がいないという理由で、例外的に源氏長者となったことが特筆されています。
第62段 松しまやおしまれぬへきみとりせは猶立帰うらみてやみん
後崇光院
崇光天皇の孫にあたるも、不遇な前半生を送り、
自身は即位できないまでも、息子が後花園帝となったため太上天皇となりました。
第63段 雲はらふ風のやとりの松しまやをしまの月の影そさやけき
飛鳥井雅世
以前も登場した蹴鞠の家元、飛鳥井家。
二条為定の母が飛鳥井家の出身だったりと縁戚関係もあり
足利義満・義教ら将軍家とも良好な関係を維持して家を繁栄させています。
3、荒れ狂う波より涙を誘う島風か
いかがだったでしょうか。
今回は南北朝時代から室町時代にかけての歌人たちの紹介となりました。
偶然なのか、当時の流行なのか
波が読み込まれた作品が複数みられました。
南北朝の動乱の中になって、揺れる心を荒波に重ねたのでしょうか。
実際の雄島は寂しさこそあれ、湾内の島なのでそれほど荒波は感じられません。
その点、やはり実際に現場をみた宗久の和歌は一味違う気がします。
皆さんはどの歌が気になりますでしょうか。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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