第544回 芭蕉に初挑戦

1、毎年恒例行事

松島では芭蕉俳句大会を毎年11月に実施しており、

今回それに合わせた展示を企画しています。

初の松尾芭蕉に関連する展示…いろいろと不安やあきらめもありますが

現在鋭意解説パネルを製作すべく、関連資料を調べているのですがどうも専門分野外なので筆がのらなくて困っていました。

下書きを兼ねてこちらで整理していきたいと思いますので、お付き合いくだされば幸いです。

2、まるで教祖のような扱い

松尾芭蕉は元禄7年(1694)に大阪で亡くなり、遺言に従って滋賀県の義仲寺に葬られました。

その名の通り、木曽義仲の死後、妻の巴御前が菩提を弔うために建てたと伝えられているお寺です。

芭蕉がなぜこの寺をそこまで愛し、墓所として選んだのかは別の稿にゆずるとして、

滋賀県まで気軽に来れない俳人たちが、身近なところに参り墓をたてるようになります。

翁塚とか翁墳と呼ばれるものがそれで、あまりに数が増えてきたので、一冊の本にまとめることが何度か試みられます。

『諸国翁墳記』と名付けられ、随時アップデートされて新しい塚の情報が加わることになっていきます。

このようなファンが世界を広げていく様はどこか現代のオタク界隈を見るようで親近感がわきますね。

3、そして句碑へ

江戸時代も後半になってくると塚から句碑を建てることに流行が移っていくようです。

松島にも芭蕉に関する句碑は4基あり、

いずれも芭蕉に私淑する俳人たちの働きによって建立されたものばかりです。

そのうちの一つ、

かの瑞巌寺の門前に立っているものには、「おくのほそ道」の松島部分を抜粋して刻むとともに

石碑を建立したグループの個人が詠んだ松島の句も刻まれています。

中心となった人物は

遠藤曰人(あつじん)で、仙台藩の侍ですが、芭蕉の門人たちの伝記『蕉門諸生全伝』を編集するほどの筋金入りの俳人です。

他のメンバーをみると藤井鼎左(ていさ)という大阪の商人、江戸の志倉西馬(さいば)など俳句好きのネットワークが広く、かつ強固に張り巡らされていたことがよくわかります。

作品の良し悪しについては私にはよくわかりませんが

のちにこの地を訪れた正岡子規が

林立する句碑を見て、そこに刻まれた句について

ほどんど見るべきものなし

と断じながら岩間乙二の

春の夜の爪あがりなり瑞巌寺

の句だけは

古今を圧して独り卓然たるを覚ゆ

とほめているのが印象的でした。

ただちょっと調べただけでは来歴が全く不明な人物もいて

12名のうち「心阿」「如雲」の二人については全く情報がない状態です。

わからないことはわからないと素直にそう書いておけば

詳しい方から逆に教えていただけますかね。

4、切り口を変えるって大事

いかがだったでしょうか。

句碑の写真はあとから追記できればと思います。

やたらと詳しい人が多くて、ある意味「地雷」になっていたので

避けてきましたが、

江戸時代の文化人ネットワークの様子などは

もっと調べてみたいという気持ちになってきたので

今後はこの切り口で深掘りしていけばいいかな、と思い直してきました。

俳句や芭蕉について詳しいよ!という貴方、

間違いなどございましたら、ぜひコメント欄でご指摘ください。

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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