第785回 歌枕としての松島⑤

1、第29段から第35段まで

淡々と続けているこの企画

Twitterで毎日呟いている #松島百人一首  を一週間分ご紹介します。

Wikiレベルですが作者の経歴の紹介と

個人的な感想を付け足しています。

2、ついに歌聖が登場

第29段 たれここに秋風ふかば松島や雄島の浪にかへるかりがね

猷円僧都

画家としても知られる藤原隆信の子で、早くに出家し、園城寺の別当になります。

藤原定家の甥にあたり、親しく交流していた記録が残っています。

第30段 まつ島のあまのころもで秋くれていつかはほさん露もしぐれも

藤原定家

御子左流を確立し、我が国における代表的な歌道の宗匠として名高い定家。

若かりし頃は言い争いに激昂して燭台で人を殴ってしまったこともある意外と激情の人。

たとえ後鳥羽院が褒めても、自分が納得していない作品を新古今和歌集に入れることを断固として認めなかった、というエピソードも伝わっています。

第31段 まつしまや秋かせさむきいそねかなあまのかるもをひしきものにて

九条良経

摂関家の中枢に生まれ、最終的には太政大臣まで上り詰めますが、源通親との政争に負けて蟄居する期間もありました。

一方、書は大家として知られ、後に「後京極流」と呼ばれるようになりますし、

和歌は御子左家と深い結びつきを持っていました。

第32段 名残をや雄島の波にたつ雁のおのが翼もしほれてぞゆく

飛鳥井雅経

のちに羽林家と呼ばれる格式の家に生まれ、蹴鞠流派の祖となる人物です。

和歌についても新古今和歌集の撰者の一人となるなど、造詣が深いようです。

第33段 こぞの秋越路もおそく松しまや春は雄島の帰るかりがね

藤原保季

和歌の家として名高い六条藤家の一員で、前回登場した有家の弟。

出家後の沙弥寂賢という名で詠んだものも含め、勅撰集に7首が採録されています。

第34段 松島やをじまのいそによる波の月のこほりに千鳥なくなり

藤原俊成女

実は俊成娘が藤原盛頼に嫁いで生まれた娘(つまり孫)ですが

盛頼が兄に連座して失脚すると、母の実家で育てられ、祖父の養女となったようです。

源通親の子、通具に嫁ぎますが、夫より和歌の才は評価されていたようで、

116首もの歌が勅撰集に採録されているようです。

第35段 しらなみのしらすやきみをまつしまになみたちかへりかくるこころを

藤原範宗

受領クラスの下級貴族の出で、各地の国司を歴任します。

順徳天皇の内裏歌壇の一人として、数多くの歌合に出席、勅撰集にも十四首が採録されています。

3、松島は秋が似合う?

いかがだったでしょうか。

偶然にも今回は秋の歌が多かったようです。

そしてついに藤原定家が登場しました。

作品としてはこれまで同様、海女と天の衣を掛けるなど定番も抑えつつ、

露や時雨にそれを例えているのはスマートな印象。

そして俊成女の多作ぶりには驚きますね。

女流歌人は少なくありませんが、やはり歌道の家に生まれ、英才教育を受けていたからこそなのでしょうか。

さて、100人選んでみると、この平安時代末から鎌倉時代にかけての作品が

最もボリュームゾーンになりそうな感じです。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

次回もまたよろしくお願いいたします。




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