第792回 歌枕としての松島⑥

1、第36段から第42段まで

今週もやってまいりましたこの企画。

Twitterで毎日呟いている #松島百人一首  を一週間分ご紹介します。

Wikiレベルですが作者の経歴の紹介と

個人的な感想を付け足しています。

2、太政大臣つづき

第36段 うき名のみをじまのあまに身をかへていかにうらみむ人のこころを

西園寺公経

妻が源頼朝の従姉妹にあたり、鎌倉幕府との関係が良好であったのみならず、

後深草天皇の外戚となり磐石の地位を手に入れた処世術に巧みな人物。

和歌も巧みで、百人一首にも入道前太政大臣として登場します。

第37段 やみぢにはまよひもはてじ有明の月まつしまの人のしるべに

藤原知家

はじめは藤原定家に師事しますが、やがて御子左家とたもとを分かち、対抗勢力を形成します。出家して蓮性と号しています。

第38段 あさりするをじまのあまのぬれ衣みなれてなれて宿る月かな

九条良平

父兼実は摂政・関白、太政大臣、兄良経も摂政、太政大臣という摂関家に生まれ本人も太政大臣にまでなる、セレブ中のセレブ。

和歌も勅撰集に合計18首が採録されています。

第39段 松島やわが身のかたにやくしほのけぶりの末をとふ人もがな

久我通光

源通親の子で、後鳥羽上皇の覚えもめでたく、太政大臣にまで上り詰めます。

勅撰集に49首も採録されているように、和歌にも造詣が深いようです。

第40段 まつしまやをじまの海士のすて衣おもひすつれどぬるる袖かな

中山忠定

後の分類では羽林家の家柄でしたが、最終的には正二位参議に就任しています。

母が六条藤家出身なので、歌壇としてはそちら側に属していたのでしょう。

第41段  うき名のみをじまのあまのぬれ衣ぬるとないひそくちははつとも

源実朝

頼朝の次男で、鎌倉幕府3代将軍。

御家人達が足利氏の娘を正室に、と進めるのを受け流して京都に妻を求めたり、

前世で暮らしていたという宋の国医王山を目指そうと大型船を建造したりと

一筋縄ではいかない人物だったようです。

第42段 松しまやわが身の方にやくしほのけぶりのすゑをとふ人もかな

衣笠家良

近衛家庶流の出で、父、粟田口忠良は政治的にはあまり目立った活躍は見られませんが、

非器之性と批判されたことが知られていますので

家良が度々見せる無作法の様子が、父譲りであることが語られています。

3、和歌大流行の時代か

いかがだったでしょうか。

本日は太政大臣経験者に鎌倉幕府将軍など、VIPな詠み人が多数でしたね。

後鳥羽上皇が和歌好きだったこともあり、臣下も数多く詩作に勤しんだのでしょう。

歌の中身としましては、どれも定型的な和歌で、

現地を見ることでなく、固定されたイメージのなかで松島が詠み込まれているということなのでしょう。

それは止むを得ないこととして、当代一流の詠人達が題材に取り上げられること自体が価値のあること。

現代語でいうとブランディングということでしょうか。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。




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