第618回 時代を変えるのは意外な人物か
1、日本刀レビュー28
新年2回目の登板。
週刊『日本刀』レビュー
ちなみに前回はこちら
2、今回はいぶし銀タイプが多いかな
巻頭の【日本刀ファイル】は兵庫守家。
守家は備前国畠田を拠点とした刀匠で、初代は隣接する長船の光忠と並び称され、傑作を多く世に送り出しました。
その作品は五代将軍徳川綱吉が土浦藩主土屋政直に与えたとされる太刀(土浦市博物館蔵)、
徳川家康が上杉謙信に送り、明治天皇の御代になって米沢藩から献上された「徳用」(宮内庁蔵)など数多く残されています。
掲載作は2代目守家の作と言われ、
その名は丸毛兵庫頭長照の愛刀だったことから来ているそう。
丸毛兵庫は美濃の武将で、その子兼利が織田信長に見出されます。
本能寺の変後は秀吉に仕えて各地を転戦し、2万石の大名に出世しますが、
関ヶ原の戦いで西軍についたため、敗戦後は高野山に逃れます。
この際に高野山から徳川家康に渡り、
例によってまた尾張徳川藩に受け継がれるという流れ。
現在でも徳川美術館に所蔵されているようなので、その「蛙子丁子」と呼ばれる独特の刃文を見る機会もあるかもしれません。
【刀剣人物伝】は蒲生氏郷。
織田信長に小姓として仕え、頭角を表すと
豊臣秀吉にも重用され、最終的には会津92万石の大大名に出世します。
伊達政宗を警戒して抑えとして置かれたとも
氏郷自身が警戒されて地方に転封されたとも
本人は不満があったようです。
愛刀の国光は「会津新藤五」と呼ばれ、孫の忠郷の代に蒲生家が断絶になった後は
加賀の前田利常を経て、徳川綱吉に献上されたといいます。
同じく「会津正宗」は息子秀行から徳川家康に渡り、明治維新後は有栖川宮家から明治天皇へと献上されたと言われます。
そしてタタリの伝説を持つ小太刀「鉋切長光」は六角義賢から織田信長、丹羽長秀を経て氏郷へ渡り、忠郷の代に徳川家光に献上されたそうです。
刀に関するエピソードは少ないですが、豪快なエピソードの多い人物で
この刀たちも共に戦場を駆けたのだと思うと感慨深いですね。
【日本刀匠伝】は明寿。
刀剣は慶長期(1596〜1615)が古刀と新刀の境になりますが
新刀の開祖とも仰がれるのが埋忠明寿です。
明寿の父は足利将軍家に支える金工職人で、明寿も当初は豊臣秀吉以下
諸大名から依頼を受ける刀装具の職人として活躍していました。
特に刀の鐔を得意とし、「三作」に数えられるほどだったようです。
ある時から一門の子弟に短刀を打って贈るようになり、
その精緻な龍の刀身彫刻が目を引く作品を多数残しています。
例えば慶長三年八月日の銘が入った太刀(京都国立博物館蔵)には「他江不可渡之」とわざわざ刻んであります。
門外不出として、刀装具を作っていた金工職人が余技で作っていた刀が
後の日本刀に大きな影響を与えた、というのは興味深いですね。
最後に【日本刀ストーリー】として紹介されているのは
忠臣蔵と刀。
ちょっと12月の旬を逃してしまいましたが
浮世絵や人形浄瑠璃の演目としての「仮名手本忠臣蔵」の話題だからいいですよね。
具体的には塩冶判官(実は浅野内匠頭の仮託)が切腹するシーンで
九寸五分の短刀を用いていますが、
これは切腹刀はあえてきりのいい1尺を避ける、という古来の作法があると紹介されています。
素人考えをしてしまうと、これから腹を切るのですがら、切れ味が悪いよりは「キリ」がいい方がいいように思えますが。
後は有名な大石内蔵助が世間を欺くために遊興にふけるシーンで
わざと京都の茶屋に刀を忘れ、それが錆びて使えないものだったというエピソードも取り上げられています。
実際に江戸時代の貧しい侍は錆びた刀を差していることもあったのでしょうか。
赤穂大石神社の義士宝物館に展示されている、大石内蔵助の佩刀、備前長船の刀と脇差はもちろん綺麗に手入れされているようです。
3、惜しい人を早くになくした
いかがだったでしょうか。
今回も様々な時代の刀の話題が紹介されていましたが、
徳川綱吉が別の刀のエピソードに2度登場しているのを見ると
【刀剣人物伝】に登場することもありそうですね。
蒲生氏郷は大将の立場にありながら、誰よりも先頭切って敵陣に乗り込むタイプだということは知っていましたが
刀に関する逸話が少ないのは意外でしたね。
負けず嫌いなところもあるような人物ですので
若くして亡くなってしまわず、長生きしたら隣の伊達政宗とコレクター度を競ったりして面白かったのかもしれませんね。
まだまだ知らないことはたくさんあります。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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