第713回 常識が揺らぐ快感

1、職場にご恵送シリーズ52

本日紹介するのは

2020年刊行『東北歴史博物館研究紀要』21号より

相原淳一・植松暁彦・阿部芳郎・東京大学総合研究博物館放射性炭素年代測定室・黒住耐二・樋泉岳二・野口真利江
「山形県酒田市飛島西海岸製塩遺跡の考古学的調査—古代製塩遺跡と古津波堆積層Ts1・2―」

遺跡発掘調査の報告書ではありませんが、地元の遺跡の解釈にも深く関わる衝撃的な論文でしたので、要点を絞ってご紹介したいと思います。

2、奥羽山脈を挟んで反対側から

飛島は山形県本土から約40㎞の海上にあり、面積は2.75㎢、人口は200名ほどの離島です。

この論文の研究のきっかけとなったのは

北海道大学の平川一臣名誉教授が津波堆積物調査の過程で製塩遺跡を発見したことでした。

出土した遺物の年代特定について東北歴史博物館の相原氏に依頼があったのです。

地層に残る津波痕跡は2時期で確認され、

上層(新しい方)は1833年の天保出羽沖地震によるもの、

下層(古い方)は嘉祥3年(850)に起きたとされる地震によるものだと指摘されています。

後者は出土した土器の年代からも9世紀中葉のものと考えられていますが、場所によってはさらに二つの層に津波堆積物が分かれているので、近い年代に2度の津波があった可能性もあるようです。

古い記録、『日本文徳天皇実録』と『日本三代実録』には嘉祥3年10月16日のこととして、

地大震裂、山谷易處、圧死者衆

と記載されているとのこと。

さらに37年後の記録には

去嘉祥三年地大震動、形勢改変、既成窪泥。加之、海水漲移、迫府六里所、大川崩壊、去隍一町余。

地形が変わるほどの大地震だったことが記されていますが、

津波があったのか、地震によって低湿地になったところに海水が逆流してしまったのかと二つの解釈があるようです。

一方で

『類聚国史』という記録には830年に起きた出羽国秋田天長地震の記述がありますが、こちらは国の役所があった秋田城周辺の情報しかない上に、

正月3日に発災したため、雪に埋もれて被害状況が把握できなったということもあるようです。

ちなみに飛島では津波痕跡が見つかっている一方で、本土側ではまだその痕跡が見つかっていないということもあります。

津波の実態を詳細に明らかにするにはまだまだ研究が必要になるようです。

3、津波痕跡を追っていたら塩作りの遺跡が

さてここからが本題。

相原氏は宮城の遺跡から見つかる津波痕跡も多く研究されているのでその比較から

例えば宮城県山元町の熊の作遺跡の貞観津波堆積層から出土した土器を観察して「被災物」であることを示す痕跡を見出していますし、

津波堆積物にはラミナという水成堆積特有の特徴があり、地層の底部分が火炎のように波打っていたり、珪藻という海にいるプランクトンの痕跡があっったりという条件を当てはめて飛島の津波痕跡を探っていきます。

そして、最後の最後に登場するのが製塩土器の話。

海水を濃縮させて土器に入れ、

煮詰めることで塩作りをするのは縄文時代から行われてきました。

平安時代にあっても、装飾性のない特徴的な土器が大量に出土すると

ここで製塩が行われていたのだな、と考えていました。

しかし、相原氏らが指摘するのは津波によって製塩土器のカケラが運ばれてきて堆積した可能性も考えなくてはいけない、ということ。

東日本大震災の際に打ち上げられた土の中に発泡スチロールやビニールのゴミが含まれていたように、

製塩土器のカケラが含まれていたのではないか、ということ。

松島湾に浮かぶ島々からはやたらと製塩土器が見つかっていましたが

これまでは島々で製塩を行って、燃料の薪がなくなったら次の島へ

ということを繰り返していた、と説明してきました。

それが実はたまたまどの島にも津波で製塩土器が含まれる土が堆積しただけ、という可能性が出てきてしまったので、説明が難しくなったということになります。


あまりに衝撃だったので、息もつかせず書き連ねてしまいましたが、

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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