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第724回 仙台藩一門第5席はダテじゃない

1、職場にご恵送シリーズ55

昨日の記事は思った以上に反応がありました。

考古学とか文化財に関わる方々と問題意識を共有できたのはとても幸いでした。

さて本日ご紹介するのはミヤギは登米市にリニューアルオープンした資料館、

登米懐古館の展示図録。


残念ながら5月の連休明けまで休館が決まっていますが、

その後、ぜひ訪れたい場所になりました。


2、なぜこんなところに

開館は遡ること昭和36年。

平成の大合併前に登米町(とよままち)だった時代、

のちに名誉町民となった渡辺政人氏が寄贈して設立した資料館です。

それが昨年、なんと、かの東京オリンピックメインスタジアムも手掛けている隈研吾氏の設計によって移転リニューアルしたのです。


図録にはそのコンセプトとして、

檜皮葺きの屋根にコケが生えて緑になっていく様子にヒントを得て地元産のスレートと緑化を施した

という説明がなされています。

3、登米伊達氏とは

さて本題の展示品ですが、

まずは登米伊達氏ゆかりの品が中心です。

登米伊達氏の始まりは白石宗直という武将。

仙台の白石宗実は累代の伊達家臣で輝宗・政宗にしたがって各地の戦いで功を挙げます。

しかし後継者となる男児がおらず、娘婿としたのが宗直でした。

彼は伊達稙宗の孫、つまり輝宗とは従兄弟同士になります。

彼も関ヶ原の合戦の奥州版とも言うべき慶長出羽合戦等に従軍し

さらには密かに政宗の命を受け、南部氏に反乱を起こした和賀忠親を支援する任務にもついたと言われています。

戦後、責任を取らされて、胆沢郡水沢から登米へ転封させられた、と従来語られてきましたが、

図録によると、広域支配と土木技術の経験を買われての移封だという見方があるようです。

伊達政宗の庶長子である秀宗が宇和島藩主になるに先立って城を受け取るという大役を任されるなど信頼されていたことは間違いないようです。

大坂夏の陣にも従軍し、その功績を認められ、家紋「竹に雀」の使用と伊達姓に復することを認められたということでした。

次代の宗貞にはまたもや男児がおらず、本家から養子五郎吉をもらうも早世。さらにその弟、後の宗倫を迎えます。

宗倫も若くして後継者を残さず世を去ったので三度本家から養子をもらうことに。

実は8代村勝と9代村良も同様に本家からの養子で、

伊達家一門の中でも結果に本家に近い血筋になったということです。

図録ではこの関係をわかりやすく系図で説明しています。

宗倫といえばもう一つ話題になるのは天下に聞こえた御家騒動、

伊達騒動との関わりです。

隣接する涌谷伊達家の宗重との間で境界争いが起こったことが騒動のきっかけになったのです。

詳しく説明するとそれだけで長くなってしまうので割愛しますが、

事件に関係する複雑な人間関係が図解されているのはありがたいですね。

4、展示品の紹介

ようやく展示品の詳細ですが、まず最初にご紹介するのは

白石宗実着用と伝わる甲冑。

前立(かぶとの前につく飾り)が漢字「也」の姿になっているのが特徴的です。

「我こそは白石若狭宗実也」ということを表しています。

と説明があります。

書状は伊達政宗とのやり取りはもちろん、徳川家康からのものも展示されています。

個人的には松島の円通院に眠る、幻の仙台藩3代藩主光宗の書いた花鳥図が気になりました。

将来を嘱望されながらも若くして亡くなった御曹司の残した絵はなんとしても直接見てみたいところです。

また本資料館は刀剣も豊富に所蔵しており、

中でもこちらは正規の仙台藩3代藩主の綱宗が製作したとされる刀が注目です。

実は彼は先ほど説明にも出た伊達騒動の前哨戦で隠居させられ、

長い後半生を芸術の世界で暮らした方でした。

作刀にもご執心で、県内外に「綱宗」と銘が刻まれた真贋様々な作品が残されています。

もちろんこちらのは本物ですけども。

5、登米無双

いかがだったでしょうか。

登米市は近世近代の遺構が残る町で

下の動画にあるように食文化でも話題です。

建築好きにも、武将好きにも魅力的な町。

私もまだまだ勉強中ですが、いつか歴史オフ会の舞台として

皆様をご案内したいと思っております。

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


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