第585回 すべての道は鎌倉に通ず?
1、鎌倉に向かう道だから鎌倉街道
今日はこの研究会に参加してきました
「奥大道」シンポジウムパート2 中世奥羽の街道と大道
午後1時からほぼ休憩なしで5時までみっちり専門家の話を聞くという濃密な時間でした。
2、趣旨説明
そもそも奥大道(おくだいどう)とはなにか。
中世において、奥州へ向かうメインストリートとなった道のことです。
そういえば東京都の国分寺市に行った際に古代の東山道と
中世の鎌倉街道跡が両方残っているのを見てきました。
これまでの研究で奥大道についてどこまでわかっているのか、
これを明らかにするのが本研究会のメインテーマでした。
関東部分については5月に栃木県立博物館でパート1のシンポジウムがあったとのことで
本日も大部の資料が配布されました。ちょっと読み込むのに時間もかかりそうなのでここでは割愛します。
パート2で議論の中心となった東北地方部分のみご紹介すると
まずは奥州藤原氏が白河の関から津軽外浜まで一町ごとに金色の阿弥陀像を描いた笠卒塔婆を建てた、という吾妻鏡の記載から奥大道の歴史は始まっています。
その後は資料が少ない時代を経て
中世の終わりを象徴する出来事として豊臣秀吉の奥州仕置きの一環として
伊達政宗に会津までの道を整備するよう命じた文書が紹介されました。
この間、奥大道が中世にどのルートを辿っていたのか、
どのように維持管理をされていたのか、
幅はどれくらいで、側溝があったのかどうか、
集落や武士の館、有力な寺社との位置関係はどうだったのか
それらについて検討が加えられました。
実はちょうど今から20年ほど前にも同じようなテーマで研究会が行われ、
その成果は下記の冊子にまとめられました。
実はその時の東北地方を担当したメンバーと本日のパネリストはほとんど変わらないという…
ともかく20年間の研究蓄積の再確認、といった意味合いもあったようです。
3、4時間の内容を超略
基調講演として総論的な話をされたのは岡陽一郎氏。
昨年著書を出されたということで、もっとも攻めた内容の報告でした。
会場で販売していたのを買ってきたので詳しくはまた別稿にまとめますが
本日の話の骨子は
中世の街道を見ることで幕府や当時の社会がどう見えるか
ということに尽きるかと思います。
現代的な感覚からすると、道というものは
公共性の高いものですから、幕府を中心とする公権力が維持管理に責任をもってしかるべし
という先入観に囚われすぎているのではないか
という問題提起が根っこにあるようです。
続く、三好俊文氏の報告では
ミヤギ県内に絞った内容ですが、
資料の不足を地域に残る伝承から遡らせてどこまでわかるかを提示した労作という印象でした。
直前の岡氏の報告では安易に伝承に引きずられて解釈することを戒めていたので
微妙な感じになりましたが
近世の地誌、奥羽観蹟聞老志、封内風土記などに残る奥州合戦伝承の分布を全て抜き出し、地図上に示したことで
通常考えられていた奥大道とは別ルートの幹線道路、
陸奥国府から西へ向かう堂庭山越えの道については大いに議論を生むものではないかと感じました。
続いて、福島県の飯村均氏、岩手県の八重樫忠郎氏、山形県の山口博之氏によって1999年以降、現在まで発掘調査で明らかになってきた考古学で見える街道についての報告がありました。
本人たちも一様に述べていましたが、いわゆる「いつメン」ということで
安定感はありましたが、次の世代が育っていないことに対する危惧もあったようです。
簡潔にまとめると、断片的な情報ですが、各地の状況に合わせて様相が大きく違う、ということに尽きるかと。
幅10mを超え、両側に1m以上の深さを保つ「大道」というにふさわしいものがある一方で
2m幅くらいしかないような道でも、
交通の要衝で、交通量が多い「大道」であるような場所もあった、ということになります。
個人的に興味があったのは経塚と道のあり方。
平安末期に盛んになったお経を埋める塚を作る習俗ですが
街道から見えることを意識していたのではないか、とのこと。
八重樫氏を中心に今後も調査活動が継続中とのことで
いずれまた本稿でも取り上げることができればと思います。
情報量が多く、まだ消化不良の印象ですが、
また折に触れて中世の道についてもお話ししていければと思います。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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