第879回 伊達家の先祖は料理人?
1、幾つになっても学習意欲
普段から講座に通ってくれていた地域の方から
今これを勉強しているんだ
と見せられた資料が
という大正時代の活字本。
せっかくなのでこちらで内容を紹介したいと思います。
2、由緒正しき家柄
作者の作並清亮は幕末の仙台藩士で、藩校養賢堂で教鞭をとっていました。
明治以降も伊達家に仕え、系図の編集に従事しています。
『松島勝譜』という著作もあります。
東藩史稿も大正4年刊行なので明治以降に編纂され、最晩年に出版されたことになります。
書き出しは伊達家の遠祖が中臣鎌足に行き着く、というところから。
わざわざ「大織冠」という史上彼一人が授かった最高位を冠して記されています。
次に記されているのは鎌足の曾孫にあたる河辺左大臣贈正一位魚名。
鎌足の子、不比等には4人の男子があり、この藤原四兄弟が天平年間の政治の中心にありましたが、天然痘の大流行によって次々を世を去りました。
四兄弟のうち次男の房前の子孫は北家と呼ばれ、後に最も栄える系統になります。
房前の五男が魚名で、武人として名高い利仁からは美濃斎藤氏、秀郷からは結城氏や小山氏など武家の血筋へとつながっていきます。
伊達家の系譜に戻ると、こちらは魚名流の中でも山蔭という人物の子孫にあたるとされます。
山蔭は清和・陽成天皇の頃に参議まで上り詰め、最終的には中納言となっています。
面白いのは四条流庖丁道の祖ともされていること。
後に伊達政宗が自ら客人に手料理を振る舞ったのは先祖譲りなのかもしれません。
と、ここまで紹介しておいてなんですが、著者によると、『会津四家合考』(向井吉重著の史料)やその他諸家に伝わる系譜と総合してみても、
ここまでは根拠がどこにあるのかわからない。
と容赦ない記述が。明治以降とは言え、主家の系譜の信用度に言及するのはさすがですね。
その後の系譜を見てみると、山蔭の第6子、中正から安親、為盛、為盛、定任、実宗、季孝、家周と五位の中流貴族が続いています。
この中で、地方に下向してきたのはいつからかという点について、本書ではいくつかの説を挙げています。
・常陸国真壁郡の中村というところに拠点があり、中村姓を名乗るようになったのが実宗
・同じく真壁郡の山尾に住んだので、季孝は山尾蔵人と名乗った
・季孝が住んだのは下野国芳賀郡の中村であった
・常陸国下館だった
など諸説あるもののどれも明確な根拠はない、と断じています。
家周の子である光隆は鳥羽院の中宮、待賢門院に仕えていましたが
保元の乱で源為義に従って戦死した、とある書物には書いてあるが
信頼できる資料ではないので詳細は不明とのこと。
ただ、光隆は為義の娘婿になっているのであり得ない話ではない、断定を避けています。
光隆の子がようやく伊達家初代の朝宗。
鎌足から数えるとなんと17世の孫にあたるそう。
どこまで本当かわかりませんが、系譜をたどる旅は先が長そうです。
振り返ってみると
中臣鎌足 藤原魚名、山蔭とつづく家柄にわざわざ結びつけるような作為があったのか、
当初から伊達家に由緒が語られてきたのかそれは今となってわかりませんが、
利仁や秀郷ではなく、あえて山蔭をチョイスしたところが注目ですね。
奥州藤原氏の過去の栄光を背負うのであれば秀郷流の方が良かったんだろうし、
常陸国に土着したのであれば、なおのこと下野に同族が多いのも利点の一つです。
そうしなかった、ということであればやはり当初から語られてきたのかもしれません。
3、老若男女とわず
いかがだったでしょうか。
明治・大正期でも主家に遠慮せず、過去の文献の記述でも裏付けが取れなければ鵜呑みにしない、というアカデミックな態度が既に認められますね。
そして、今回のように学芸員として地域の方に気軽に相談していただくのはありがたいですが、
それ以上に、あえて目を通す理由がなくて向き合っていなかった資料に
アクセスするきっかけを与えてもらったことが嬉しいですね。
何度も書いていますが、
私の理想とする学芸員像は近所の子どもが拾ってきた土器を持って
これはいつの時代のものですか?
なんて気軽に訪ねてくることができる、というあり方なので
年配の方からでも、どんどんこのような機会が増えるような
地域との向き合い方を忘れないようにして行こうと再認識しました。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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