祝・第700回 専門は何かと尋ねられたら

1、キリ番は自分語り回

通算700回となりました。

これまでキリ番の時には自分語りをするのが恒例になっているので

本日は自分の専門分野の研究について

少し詳しくお話ししてみたいと思いました。

というのも先日、大学院修士課程で学んだ中央大学が新たに考古学会を立ち上げるということで

記念誌に寄稿させてもらいました。

この拙文をまとめるにあたっては

これまでの研究の方向性というか、

思考の変遷を整理してみたことがきっかけの一つでもあります。


2、今の研究テーマにたどり着くまで

前にも少し触れたことがあるかもしれませんが、

学部時代の卒論は貿易陶磁器といって

中国の龍泉窯とか景徳鎮で焼かれた高級食器が

在地社会、京都や鎌倉ではない、地方の武士の館や有力寺社の跡から

どれくらい出土するかを調べてまとめたものでした。

大雑把にいえば貿易陶磁器の流通が鎌倉時代と戦国時代で違うのか、

ということを明らかにすることが目的でした。

結果としてはなんとなく分布は違うけど薄ぼんやりしているな、というところでしたので

修士論文では地域で作られていた土器、鍋釜に使うような実用品ですね、

それが鎌倉時代と戦国時代でどう違うのか、というテーマでまとめた形になります。

まあよくある話ですが、消化不良で全然満足のいくものではなかったんですよ。

そして、ミヤギに帰ってきて就職すると

同じ時代、鎌倉時代や戦国時代を考古学で研究する、と言った時に

どうしても土器や陶磁器よりも石で造られた供養塔が鍵になってくるような

場面に遭遇したんです。

もちろん学生時代にも五輪塔の実測をしたり、

板碑の拓本を採ったりはやっていたんですが

メインテーマにはしていなかったのです。

主な理由としては、私が対象にしていた北関東地方では

もう先駆者がいて、私みたいな若輩者が入り込む余地がなさそうに思えて。

それに比べて土器や陶磁器は発掘調査がどんどん進めば

それだけ出土資料が増えるわけですから、先に研究していた人と比べても

観察する資料の数が大きな差にならないからチャンスがありそうな気がしたんですよ。

ところがミヤギは考古学で中世を研究しようとする人の絶対数が少なくて

必要なデータも揃わないから、自分で集めなくてはいけないという感じでした。

それで現職の本業で携わった調査で膨大な量の出土資料を抱えてしまい、

大部分が五輪塔や江戸時代の供養塔、柿経というような信仰に関わるものでしたので、まずはそちらを先に整理して情報を広く公開していく方が

学界としてもメリットがあるだろう、という段階になります。

3、石造りの供養塔から何が見えるか

さてここからはもっと深掘りしていきます。

宮城県は平安時代の終わり頃には

平泉の奥州藤原氏の影響を受けた文物も少なくなく、

源義経に従った佐藤兄弟の墓と伝わっている五輪塔もあります。

実際は鎌倉時代まで降る年代が想定されているようですが、

この五輪塔で個人を供養する、というスタイルはあまり定着しなかったのか

板碑という板状の石碑に梵字を刻むスタイルが広く全県的に見られます。

大部分の地域では鎌倉時代の後半には流行のピークを迎え、

室町時代になると地域ごとに様相が異なります。

石巻地域では板碑スタイルが継続しますが、

松島では小型化してお札のようになった板碑が登場します。

ただ、これは年号が刻まれているのが少ないのでまだまだ不明確です。

その後戦国時代には簡素化し、定型化された五輪塔が唐突に登場するようになります。

こちらも年号が刻まれたものが非常に少ないのでまだはっきりとしたことが言えませんが、

伊達政宗が建立した瑞巌寺の本堂の基礎に転用されているので

少なくとも政宗以前から松島地域には五輪塔が供養に使われる様相があったことは分かります。

今はこのあたりの資料を遅々たる作業ながら報告して世に問うている段階ということになります。

だんだんその先を見据えないといけない段階になってきましたので、

松島と石巻以外の地域ではどうだったのかを真剣に調べていかないといけないと考えているところです。

4、まだ根拠は薄いけれど

いかがだったでしょうか。

普段使っている食器や床の間に飾る高級食器である土器や貿易陶磁も中世の人の暮らしに迫ることができる面白さがありますが、

石でできた供養塔はたまたま残りやすい、という状況はあるにせよ

当時の人々の精神性を探る上では貴重な情報を提供してくれます。

これまで板状の石碑を建てることが

中流階級以上の人々の信仰スタイルだったのが

次第に簡素化され、より庶民的な階層の人々も似たような供養スタイルに

参加できるようになった、

それを見た上流階級が差をつけたくて古くて新しい五輪塔というスタイルで供養を行うようになった、

それがさらに大衆化して…

というのはまだ根拠の薄い妄想ですが

案外そんなところが実態なのかもしれません。

もしくは大きな声では言えませんが

お寺の生活基盤として需要を喚起していたということもあるかもしれません。

鎌倉幕府が力があった時には全面的なバックアップが期待できたのに

だんだん知りすぼみになってきたので

地域の有力者からもらうお布施を効果的に集めることを考えるようになった、

そこで登場したのが寄進の見返りに供養塔を造りますよ、というスタイル。

経済性を追求して時代を経るごとに簡素化し大衆化していく、ということであれば

こういうストーリーもありかもしれませんね。

古文書と違って考古資料に雄弁に語らせるのは難しいですが

真摯に資料に向き合っていくと、急に着想が生まれるかもしれません。

鎌倉時代の人も、戦国時代の人も、現代の我々も災害や日常的なトラブルに一喜一憂しながら必死に生きていたことに変わりはありません。

究極のところは、ただ知りたい。今から400年も600年も昔に生きた人たちの証が目の前にあって、それが何を語るか関心がある。ただそれだけなんです。

ぜひ今後もお付き合いくださるとありがたいです。


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