第851回 書画にも歴史にも造詣の深いマルチプレイヤー

1、職場にご恵送シリーズ76

今回ご紹介するのはこちら。

『仙台市博物館調査研究報告第40号 令和元年度』


その中でも特に気になるこの論考をご紹介します。

寺澤慎吾「佐久間洞厳について」

2、狩野派から儒学者まで

佐久間洞巌は仙台藩お抱えの絵師にして儒学者です。

仙台藩の地誌の先駆けである『奥羽観迹聞老志』の編者としても知られています。


元々は新井氏という仙台藩士の家に生まれますが、その才を見込まれ、

仙台狩野派の絵師佐久間友徳の養子になったのです。

本論考では様々な資料から詳細な年譜がまとめられ、そのひととなりがわかるようになっています。

元禄3年頃から藩の仕事を任されるようになったようですが、

翌年なぜか「佩刀の罪」、藩主のお供で鷹狩りに同行した際に、刀を所持していたのが不敬だということでしょうか、藩主の怒りを買って

仙台城下から追放されてしまいました。

この際に藩内を転々としたことが、後の『奥羽観迹聞老志』にも活かされているとおもうと不思議な気持ちがします。

元禄6年には城下に戻り、藩の儒学者、遊佐木斎の下で学問にはげんだとされます。

この縁でのちに性山公(伊達輝宗)、貞山公(政宗)の治家記録(公式の仙台藩の歴史書)の編纂に加わっています。

また元禄11年には八重姫が水戸少将に輿入れするにあたって献上する屏風絵の一つ「奥州松嶋塩竈図」を製作したことが挙げられています。

とはいえ、この八重姫は誰の娘で、誰に嫁いだのか。

本誌には詳細がありませんでしたが、当時の水戸藩主は3代綱條ですが、伊達家との縁組はまだ確認できていません。

大名クラスの婚姻ですから、藩主綱村の娘なのでしょうが、こちらも詳細はまだ確認中です。

とにかく藩の仕事、しかも家の威信をかけた持参品の一つを任されるようになったということは放免され、その腕は高く評価されていたということでしょう。

高知県出身の南画家である中山高陽が記した奥州紀行文『奥游日録』に
洞巌の絵を二本松で目の当たりにし

題書亦有雅致。画は狩氏より明人の法を学ぶに似たり。甚可見。当時和画家及ぶ所に非ず

と評しています。

大胆に意訳すると、

洞巌の書も絵もともに素晴らしい。画は狩野派、というより中国から直接学んだように見える。
現代の画家でここまでの作品を残せるものはいない。

と激賞しています。

儒学者としての位置は、当時の一流の学者との親しい交流も一つの考える指標になろうかと思います。

まずは一度も面識ないのに現存しているだけで60通もの手紙のやり取りをしていた新井白石。

洞巌が描いた「宮城八景」に詩を付して欲しい、とお願いしたり

逆に白石からは娘の輿入れに際して持参させる画を頼まれるなど、

かなり信頼関係で結ばれていたようです。

その延長線上で、洞巌の自伝の執筆もお願いしたとか。

結局白石は老齢を理由に依頼を断り、弟子に執筆を依頼したとのことでした。

他には荻生徂徠との交流も知られています。

徂徠の50歳のお祝いとして王元美の書と白石雲麺、松島図を贈ったとされています。

流石センスの良いチョイスですね。

雲麺とは温麺とも言うミヤギを代表する素麺のこと。

王元美とは中国、明代の画家です。

そして最後は定番の「松島図」

ミヤギ土産として上流階級の間で話題の…

となっていたのかもしれませんね。

3、好きな言葉は向学心か

いかがだったでしょうか。

膨大な資料を丁寧に捜索していくと、一人の絵師で儒学者である人物の来歴がここまで詳細にわかるのですね。

資料が多く残っている近世ならではの状況でしょうかね。

画を描くにあたっては、漢詩や儒学の世界を深く理解して表現するということも必要なのか、

単に学者肌の画家だというだけなのか

いずれにしても向学心に満ち溢れたパワフルなひとなんでしょうね。

これを知ってからまた彼の作品をみると、また違った想いを巡らすことができるのかもしれません。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


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