第685回 道を極めるとは

1、日本刀レビュー37

今回は週刊『日本刀』37号をご紹介します。

ちなみに前回はこちら。

2、破邪顕正の日本刀

巻頭の【日本刀ファイル】は後藤藤四郎。

創刊以来初めての短刀と言うことで

無名藤四郎と庖丁藤四郎、鯰尾藤四郎と4振りが掲載されています。

京都三条通の白川橋から蹴上付近を粟田口といい、

そこで作刀を行なっていたのが粟田口派と呼ばれました。

名工が多い流派の中でも最も評価が高いのが藤四郎吉光。

掲載作の「後藤藤四郎」は徳川家康から金座の初代頭役を務めた後藤庄三郎光次が所持したことから名がついています。

その後、幕府の老中土井利勝の手に渡り、3代将軍家光に献上、

家光の娘、千代姫と終わり藩主徳川光友の婚礼の引き出物として贈られ、

以後代々受け継がれて現在も徳川美術館に収蔵されています。

実は残りの3振りも徳川美術館にあり、

「無名藤四郎」は高松藩主生駒正俊から徳川秀忠に献上され、初代尾張藩主の徳川義直に贈られたもの。

「庖丁藤四郎」大谷吉継から徳川家康を経て徳川義直へ

「鯰尾藤四郎」は織田信雄から豊臣秀吉、秀頼と伝来したところで大坂城落城で焼身に。徳川家康が再刃させて徳川義直に与えたとされます。

こうして4振り並んでいると刃文も茎の様子も全く違う趣があって面白いですね。

100号揃えば色々な刀を等身大で比較できるのか。

さてお次は【刀剣人物伝】で源頼朝。

刀のエピソードとしてはなんといっても源氏重代の宝刀である髭切でしょう。

現在も北野天満宮に奉納されているこの刀は

源満仲から頼光、そして渡辺綱が鬼の腕を切ったことから「鬼切丸」とも呼ばれました。

頼義、義家、為義と受け継がれていく中で夜中に獅子が鳴くような声を出したので「獅子の子」と呼ばれたり、

一緒に立てかけておいた刀を斬ってしまったから「友切」とも呼ばれたようです。

義朝はこの髭切を頼朝に継承させますが、平治の乱で逃亡中に美濃国青墓宿の長者に預けます。

平清盛がこれを求めると別な刀を身代わりにしたとされ、

ついに頼朝が挙兵するにあたって手元に戻ったとされます。

鎌倉将軍家が滅亡した後は新田義貞を経て出羽最上家に伝来し、大正時代になってから北野天満宮に寄贈されたと伝えられています。

他には古備前派の成高の太刀を愛用したとされ、

功を立てた那須与一や伊東祐時、佐原義連などに下賜しています。

【日本刀匠伝】は恒次。

備中青江鍛冶を代表する名工で、天下五剣の一つとされる「数珠丸」が知られています。

なんとあの日蓮上人が数珠を巻きつけて愛用し破邪顕正の剣としたという珍しい来歴を持ちます。

甲斐国身延山を拠点に布教する際に、麓の長者から贈られたものと言われていますが、

なかなかどうして妖艶な刀です。

江戸時代は久遠寺に秘蔵されていましたが、一度所在不明になり、

現在では兵庫県尼崎市の本興寺に伝わっているとのことでした。

他にも恒次は徳川光圀が所蔵し、現在でも茨城県土浦市立博物館にある太刀や

林原美術館にも作例があるようです。

そして最後は【日本刀ストーリー】

和鋼の父・俵国一が紹介されています。

俵は現在の島根県浜田市で生まれ、東京帝国大学の工学部を卒業し、助教授として採鉱冶金の研究を行います。

当時西欧の製鉄法におされて衰退の一途をたどっていたたたら製鉄の現場を調査し、『古来の砂鉄精錬法ーたたら吹製鉄法』という研究書にまとめます。

じつはたたら製鉄は俵が現地踏査を行った後に全て廃絶しており、

その記録は貴重なものとなりました。

東京帝国大学の教授となった俵は「日本刀研究室」を新設し、

刀工を招いて研究結果の実践を行う製作所も用意しました。

81歳になって集大成としてまとめたのが『日本刀の科学的研究』で現在でもよみつがれているようです。

島根県安来市には和鋼博物館があり、俵国一記念室が設けられていると言います。

いつかきっと訪れたいと思います。

3、求道者を生む日本刀

いかがだったでしょうか。

今回は研究者俵国一に最も興味が湧きました。

教え子たちには「禄在其中」、努力の中に意義があるという言葉を贈っていたとか、

日本刀の世界に冠たる所以は技術にあらず、技工にあらず、刀工の人格にあり

と述べたとか

求道者のような姿を想像してしまうようなところが。

日本刀に関わる人の宿命なのでしょうか。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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