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第953回 ミヤギのクジラ

1、無茶振りでも答えたい問いもある

とある人から

伊達政宗って日本人で初めてステーキ食べたってほんと?

と聞かれました。

よくよく聞くとクジラ肉とのこと。

ミヤギにも捕鯨の歴史があるのでそれならあり得ない話でもないかな、と思い直してみると

平成28年に東北歴史博物館で「日本人とクジラ」展をやっていたことを思い出しました。

書棚から引っ張り出して見直したので、本日はそれをご紹介しようと思います。

本文中の図版は全て展示図録からの引用です。

2、鯨を食べたのだれだ

クジラと人間の関わりは意外と深く、縄文時代に遡ります。

縄文時代のくじら

小型のクジラ類の骨を加工したものは祭祀や装飾品として使われていたと考えられています。

と言っても本格的に大型のクジラ漁をするのは容易ではありません。

本格的な捕鯨には組織化された船団、操船技術、さらに集団を維持する経済力と捕れた鯨を売りさばく販路が必要でした。

というように、古墳時代から中世にかけてはクジラの話題は多くありません。

16世紀以降になって海賊の子孫たちが始めた、と図録では紹介しています。

くじら取絵巻

(仙台藩士鮎川家に遺る鯨取絵巻より)

仙台藩でも江戸時代後期には財政再建のために捕鯨に取り組み始めたようで、

4年間で13頭を狩ったようですが、大幅な赤字だったとか。

その原因は油やヒゲを使った加工品は需要があったものの、食用としては一般的ではなかったのではないかと推測されています。

と言いつつ、寛永20年の『料理物語』では汁物から刺身、吸い物、和え物、粕漬が

元禄2年の『合類日用料理抄』 松前焼(鉄板に昆布を敷き詰めて、水とお酒をかけてダシをとり、魚貝類や野菜を乗せて、蓋をして蒸し焼きしたもの)

が紹介されていることも取り上げられています。

そして我らがお館様、伊達政宗が定めたという正月御膳にもクジラの肉が。

正月御膳

石焼なのでステーキと言えなくもない、のでしょうか。

3、まだまだ残るクジラ文化

ペリーが来航した嘉永6年頃は捕鯨船がミヤギの金華山沖に700隻も操業していたと言いますし、

仙台藩の学者、大槻清準は文化五年に『鯨史稿』という本に日本各地の捕鯨についてまとめています。

現在の石巻市鮎川では旧盆8月16日の御施餓鬼の際にクジラ供養が行われているとのこと。

福島県南相馬市津神社の境内には鯨大明神という石碑があったそうですが、東日本大震災で流失してしまったということ。

南相馬鯨明神

気仙沼市唐桑にある御崎神社には文化7年・天保6年の鯨塚があるとのこと。さらにこの地では漁船を嵐から救った伝説があり神の使いとして、けっして鯨肉は口にしないそうです。

こうしてみると鯨にまつわる文化は盛り沢山ですね。

そう言えば日本遺産にも「鯨とともに生きる」(和歌山県)が選ばれていましたし、

食文化を登録文化財に!という流れもきていますし

東北の鯨文化も注目されるべきかもしれませんね。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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