第1408回 政宗が眠る山

1、目的は別に

本日は仙台藩祖伊達政宗の霊廟、瑞鳳殿にお参りしてきました。

最後に行ったのはいつだったか、

遠方から来た友人を案内したことを覚えています。

ちょうどこの3月に修復工事が終了して、装いも新たになっていましたので、いい機会でした。



気づいたら全体を撮らず、金具だけ、とか変な写真ばかりでした

2、政宗が眠る山

そもそも瑞鳳殿について少し詳しくお話ししますと、

寛永13年(1636)に伊達政宗が70歳で亡くなると、

遺言に従って「経ヶ峰」と呼ばれる小高い丘の上に葬られました。

そもそもその名の通り、鎌倉時代に満海上人という聖がここで修行をし、経典を納めたという歴史を持ちます。

おそらく中世から霊場として信仰を集めた地であったことと思われますが

近世の改変で遺構は失われてしまっているのでしょう。



転用石材として使われていたという板碑が往時を偲ばせる数少ない資料です。

さてこの満海上人は隻眼で知られ、同じく幼い頃に病で片目を失った政宗が「上人の生まれ変わりではないか」と信じられ

墓所に選んだということになっています。


瑞鳳殿は桃山文化を体現する建築として国宝に指定されていましたが、昭和20年7月の仙台大空襲で焼失。

多くの資料や写真も残っていましたので、1979年には再建され、仙台開府400年を記念して平成13年(2001)に改修、そして令和の美装化と復興と維持管理が行われてきたことになります。

そして、1979年の再建の前に、発掘調査が行われ、

伊達政宗の愛用の品々とともに、ご遺骨から数多くの情報が得られたことが知られています。

https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/3466?all=%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%B6%E5%A2%93%E6%89%80&sort=publish_date

1980年に刊行された概要報告書によると

戦時中の燃料不足のため、経ヶ峰でも亜炭採掘が行われ、墓室も破壊された、という噂もあったというから驚きです。

実際は極めて良好な状態で、石灰(牡蠣灰)が棺桶内に詰められていたおかげで喉仏までしっかりと残っていたというのです。

実は私が前職のころに、定年間際だった方々が若い時に発掘調査に携わっていたようで、もっと生々しい裏話もあったのですが、

それはまたの機会に。

政宗が江戸で亡くなったのが5月24日。6月3日には仙台に到着し、6日には埋葬した、と記録にあるとのことで

おどろくべき突貫工事である

と報告者の伊東信雄氏も記しています。

お墓は先に作っておいた、とかないのでしょうかね。

そしてさらに報文では

石室造営に関する第二の問題は、石室の設けられた位置が瑞鳳殿本殿の中央になく、北にずれて存在したことである。

と続いています。

奥方が同じお墓に入れるように空けておいた、ということも考えられたようですが、埋葬後すぐに本殿が建てられたため、物理的に不可能になったのです。

実際、政宗の正室、田村氏(愛姫)は松島にお墓があります。

こちらも豪華な霊廟が建てられています。

なんで、夫婦でお墓が離れた場所にあるんですか?

とたまに聞かれるんですが、明快な回答をだせないでいます。

当時はまだ近世大名の墓所を調査した例が少なかったのですが、

現在は増加しているので比較検討がなされているかもしれませんね。

3、まだまだ話題豊富な霊廟たち

いかがだったでしょうか。

語り出すと長くなるので、今回は伊達政宗のお墓だけに絞りましたが、同じ山中には2代忠宗と3代綱宗の廟所もあり、

そちらの発掘調査成果も見るべきものがたくさんあります。

こちらはまた別の機会にご報告させていただければと思います。

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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