第775回 歌枕としての松島③

1、第15段から第21段まで

先週に引き続き、

Twitterで毎日呟いている #松島百人一首  を一週間分ご紹介します。

Wikiレベルですが作者の経歴の紹介と

個人的な感想を付け足しています。

2、歌人たちは花盛り

第15段

松しまや雄島がさきの夕霞たなびきわたせあまのたくなは

藤原親隆

鳥羽院の近臣、藤原頼長の家司、平家にも接近するなど

世渡り上手で、かつ和歌も巧み。

勅撰和歌集に16首が再録されています。

夕方の雄島を詠んだ歌も増えてきましたね。

第16段

そでぬらす雄島がいそのとまりかな松かぜさむみ時雨ふるなり

藤原俊成

御子左流を和歌の家として確立させた主役級の人物。

都落ちする平忠度に託された和歌を

自らが撰者となった『千載和歌集』に詠人知らずとして採録したことでも知られています。

秋から冬にかけての寂しげな雄島の風景がまるで目の当たりにしたかのように巧みに表現されています。

若い頃は諸国の国司も務めていたいましたが、陸奥には来てないんですよね。

第17段

松島や雄島の磯も何ならすたたきさかたの秋の夜の月

西行

俗名佐藤義清。はじめ鳥羽院の北面の武士として仕えていましたが

出家し放浪の旅と和歌の道へ。

東北地方には2度訪れていますので

間違いなく松島も、象潟(秋田県にかほ市)も実際に自身の目で見たのでしょう。

松島と象潟はよく似た景観が見られたようで、

対比して描かれることも多かったようです。

すでに名高く、京の都まで聞こえた松島の名月も、袖を濡らす雄島の磯も

象潟の秋の夜の月には比べようもない、と

松島を下げているのはちょっと残念ですが

松島町とにかほ市との縁が現代でも続いているのはこの歌の影響も少なからずあるのでしょう。

第18段

松しまや雄島が崎の夕なぎに数あらはれてかへる雁がね

清原頼業

明経博士という学識で朝廷に仕えた家柄で、清少納言の清原氏とは別系統。

漢学の博識さは知られていますが、松島を詠んだ和歌があったことはあまり知られていいないかもしれませんね。

雁は現代でも冬鳥としてミヤギに多く渡ってきますので、

800年以上前の歌人のイメージしたであろう景観を今でも味わうことができます。

第19段

松島や雄島かおきのはなれしま島つたひ行秋のよの月

覚性法親王

鳥羽天皇の子として生まれ、仁和寺の門跡となった人物です。

雄島で眺める秋の夜の月が定番になってきましたね。

第20段

松島にかかれる浪のしがらみと見ゆるは藤の盛りなりけり

上西門院兵衛

村上源氏顕仲の娘で、姉の堀河と共に鳥羽天皇の中宮待賢門院藤原璋子に出仕。

女房として働く傍ら、多くの和歌を詠んでいました。

西行とも深い交流があり、彼女が作った句に西行が上の句を付ける、ということもあったようです。

藤の花を波のしぶきに例える、文字通りみずみずしい感覚の和歌ですね。

第21段

風さゆる雄島がいその群千鳥たちゐは浪のこころなりけり

藤原季経

藤原俊成ー定家の御子左流のライバルといえば

六条藤家。季経も父や兄たちとともに、和歌の道を競い合ったようです。

雄島には多くの鳥たちが泊まっていたようで、

後々もその光景が作品に読み込まれています。


3、月か夕暮れか

いかがだったでしょうか。

いよいよ歌人たちも二大勢力である御子左家と六条藤家が登場しました。

それに加えて西行。松尾芭蕉も彼の足跡を辿って陸奥を目指した、

とされるほど後世に大きな影響を与えた歌を取り上げられました。

秋の夕暮れ時、渡り鳥や雲を眺めて心を穏やかにするか

夜の月や波しぶきかと思うように咲き誇る藤の花に心を揺さぶられるか

雄島が多様な描かれ方をしてきたのがよくわかりますね。

来週もどんな和歌が出てくるのか、ぜひご注目ください。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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