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第734回 石材産地のそばで暮らす

1、職場にご恵送シリーズ59

昨日に引き続き

近隣市町から送られてきた文化財の調査報告書を独断と偏見に基づいて紹介していきます。

今回は石巻市の立浜貝塚。

2、言葉の定義から

立浜貝塚は石巻市でも牡鹿半島という太平洋に突き出した大きな半島に立地し、

市域でも最も大きな遺跡となっています。

今回の調査で見つかったのは縄文時代、中でも晩期中葉から後葉という、

かなり成熟した縄文文化の時期の資料が豊富に見つかりました。

その中でも今回は特殊な遺物に的を絞って紹介していきます。

それは非実用の磨製石器。

その形状から呼び名が分かれます。

報告書では明確に区別していませんが、例によって『日本考古学事典』から言葉の意味を抜粋してみますと、



石棒:縄文時代の磨製石器の一種。縄文時代前期の秋田・岩手には写実的な男根形もみられるが、中期にはほぼ見られなくなり、後期半ば以降の北海道・東日本では径2〜3㎝のほっそりした小型の石棒が発達する。

石刀:長いものは片手でもてる長さ40㎝ほどで、段状の関を境に柄と刀身に分かれるように見えるために「刀」と呼ばれる。北海道渡島地方と東北北部で多い。

石剣:横断面が菱形になるのを特徴とする。片岩や粘板岩で作られることが多く、石棒にある端部の瘤状の膨らみはないが、細い沈線で柄状の文様を描く場合がある。

石冠:上面が盛り上がった直方体に山形の上部がついた形状。中部地方に分布の中心がある。

となっています。

石剣

このうち石冠はちょっと別の石材で作られているので除外しますが

他の3種類は粘板岩という、似た石材が用いられていました。

製作途中かと思われるような遺物も出ていることから、

集落内で生産から使用、廃棄まで一環して行われていた、とも推定されています。

遺跡と石材産地

3、石生産で豊かに?

石巻周辺は後々まで断続的に石材を供給する一大産地がありました。

粘板岩の産地については石巻市井内、雄勝半島の波板、女川町の御前浜、気仙沼市唐桑半島の洲崎など。

なぜ気になったかというと、中世でも「板碑」という供養塔にこの辺りの石材が用いられており、

石材の判別や加工方法、使い分けなどが参考になるかと思ったからです。

よく縄文時代といえば黒曜石の矢尻、というイメージがあるかと思いますが、

この調査ではわずかしか黒曜石が出土しておらず、剥片石器の素材として珪質頁岩や頁岩、佳化凝灰岩が多く利用されているようです。

さて、話を石棒・石刀・石剣に戻しますが、

この中にも粘板岩以外の石材を使用したものもあります。

石剣Ⅰd1類(砂岩)

石材に含まれる粒子が粗いのが写真でもわかるかもしれません。

一方粘板岩は粒子は肉眼では判別が難しいほど堅緻ですが、

これを報告者は加工の度合いによって4段階に区分しました。

この作業の結果、どの段階で廃棄されている資料が多いのかがわかります。

すると、どの工程で破損が生じやすいかという部分に繋がってくるのです。

さらに粘板岩の質によっても4段階の区別がなされており、

かなり細かい分類作業が行われていたことがわかります。

A1 灰色で石灰岩質の砂質粘板岩

石剣Ⅱb1類(粘板岩A1)

加工度合b 

石剣Ⅱd1類(粘板岩A1)

A2 暗灰色の泥岩と淡灰色の砂岩の互層

石剣Ⅱb2A類(粘板岩A2)

A3 A1類よりも全体的に均一に白色を呈するもの

石剣Ⅱb1類(粘板岩A3)

B  黒色で堅硬、緻密

石剣Ⅱa2類(粘板岩B)

違いがお分かりいただけたでしょうか。

A1の上とA3の資料が加工度合いが進んでいないことはA1下の完成品と比べると一目瞭然ですが、石の違いまで伝わったかどうかは自信がありません。

それはともかく、石材産地と近距離である集落から

加工途中を含めた遺物が出土しているのであれば、おそらくこの集落は加工品の工場的な役割も担い、

それは交易でも需要があるような生産物として利用していたことも考えられます。

ここまで書いてきて思ったのは、やはり中世の板碑も石巻のどこかに生産拠点があったのではないか、ということ。

文字を彫るくらいは供給地側でもできるかもしれませんが、

素材として輸出するよりも加工製品としての方が利潤が高まるのはまちがいありません。

遠く離れた二つの時代の石材利用について思いを巡らしてみると、まだまだ比較できる観点があるかもしれませんね。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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