第827回 歌枕としての松島11
1、第71段から第77段まで
今週もやってまいりましたこの企画。
Twitterで毎日呟いている #松島百人一首 を一週間分ご紹介します。
Wikiレベルですが作者の経歴の紹介と
個人的な感想を付け足しています。
あと、とあるフォロワーさんからご指摘を受けて、私訳を付けてみました。
全くの素人なので間違いも多いかと思いますが、
私はこう解釈している、というご理解をいただければ幸いです。
2、室町時代から江戸時代初期まで
第71段 かぎりさへ浪にいつまで松島やおしまぬ命あふにかへすは
岩山道堅
【私訳】松島の雄島に限りなく寄せては返す波のように、この命さえも惜しまず進んでいこう
道堅は九代将軍足利義尚に奉公衆として仕えた近江(現在の滋賀県)の武士。飛鳥井雅親や三条西実隆から学び、歌集を著すなど深く和歌の道を極めています。
第72段 今夜又名もみちのくのまつ島やをしまの苫も月に見え行
十市遠忠
【私訳】今夜もまた名も知らぬ貴方を待っています。観月で名高いみちのくは松島の雄島の寂しい小屋で月の出るのを待っているように。
遠忠は大和国(現在の奈良県)龍王山城主で、木沢氏や筒井氏ら近隣の領主と抗争し勢力を広げました。
歌道はまたもや三条西実隆の弟子。
三条西家が生業としてやっているのでしょうが、当時の有力者は兄弟弟子だらけになりそうですね。
第73段 こころあるあまのしわさに釣舟をよせてはつなく松かうら島
細川幽斎
【私訳】風流の心も理解している海人の仕業であろうか、松が浦島に繋がれた釣り舟が寄せる波に揺れている
前回も名前が登場した古今伝授の継承者。
その技が伝承されないまま失われるのを惜しんで、勅命により篭城から救い出されたほどの人物。
第74段 おもほえす松島お島こくふねは明行月や泊りなるらん
今川氏真
【私訳】なんとも思いがけないことだ。松島の雄島に船を漕ぎ出すと、月明かりの下で漂っていることができた。
駿河(現在の静岡県)の戦国大名で、「海道一の弓取り」と評された偉大な父、義元を失ってからは斜陽の家を保つことができず、後半生は京都で公家と交流するなど文化人として生きたようです。
第75段 松島の松のよはひに此寺のすえ栄えなんとしはふるとも
伊達政宗
【私訳】松島の松のようにこの寺も長寿を保って栄えて欲しいものだ。
言わずと知れた初代仙台藩主。
その文化人度合いはとても語り尽くせませんが、
和歌は豊臣秀吉の開いた吉野で開いた歌会でも引けを取らないほどの腕前だったそうです。
この歌は松島瑞巌寺の落慶を祝したもの。
第76段 いく度も見るめはあかじ松島や雄島の浪に立かへりきて
伊達綱村
【私訳】何度みても飽きることはないものだなぁ。松島の雄島に寄せては帰る波を見ていると。
仙台藩四代藩主。幼少のうちに藩主を継ぎ、伊達騒動という名高いお家騒動を乗り越えて様々な藩政改革を行うとともに、
様々な文化振興策にも取り組んだ名主として知られます。
もちろん松島を訪れたことがありますので、実際の光景を思い浮かべて詠まれた歌でしょう。
第77段 ながめこし浪路はくれて磯山のこずえに残る入相のこえ
伊達吉村
【私訳】ここまでくる途中に眺めていた波はもう夕暮れで見えなくなってしまったが、代わりに聞こえてくる僧侶達の読経の声が山にこだましているのを聞いている。
仙台藩五代藩主。綱村に男子がいなかったため、分家をついでいた従兄弟である吉村が後継になります。文化面では和歌はもちろん書画にも造詣が深く、自画像すら描いていたそうです。
3、教養が物言う時
いかがだったでしょうか。
前項でも触れましたが、三条西など同じ師匠に和歌を習った武士が多い時代でもあったようで、兄弟弟子としての人脈が様々な場面で活かされることもあったのでしょうね。
細川幽斎の助命はその最たるもの。
逆に伊達政宗は、みちのくにありながら、父輝宗の意向や、歴代の習慣も関係あったかもしれませんが、
名家の教養として和歌を作る力を身につけていたのでしょうね。
本日も最後までお付き合い下さり、ありがとうございます。
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