第799回 歌枕としての松島⑦
1、第43段から第49段まで
今週もやってまいりましたこの企画。
Twitterで毎日呟いている #松島百人一首 を一週間分ご紹介します。
Wikiレベルですが作者の経歴の紹介と
個人的な感想を付け足しています。
2、今回は多様性高め
第43段 逢にかうる契をのみぞ松島やおしまれぬ身のならひ成せは
順徳院
後鳥羽院の第3皇子として生まれ、父以上に幕府打倒に熱心だったとも言われ、
承久の乱後は佐渡に流されて、その地で没します。
和歌は藤原定家に師事し、勅撰集には159首が採録され、また自ら歌論書を著すなどかなり傾倒していたようです。
「松島」と「待つ島」だけでなく、「惜しまぬ」と「雄島」、が掛け言葉になっているのが印象的です。
第44段 松島やおしまぬ秋の名残にもぬれて有明の月やみるらん
順徳院兵衛内侍
絵師としても知られる藤原隆信の娘で、順徳院に使える女房となって歌壇で活躍するようになります。
第29段でご紹介した猷円僧都の兄弟で、
第40段で紹介した中山忠定の妻でもあります。
藤原定家もその作品を絶賛するほどの腕前でしたが、順徳院が配流になってしまってからは表舞台に姿を現すことはなくなったようです。
第45段 くれは又いかに忍ばん松島やをじまの海士のよるの思ひを
藤原康光
彼もまた順徳院関連の人物です。
もともと北面武士という院に使える侍でしたが、順徳院が佐渡に流されることになると、なんと彼も随行していきます。
ついには順徳院の最後を看取り、遺骨を京に持って帰るという忠臣だったようです。
第46段 いつくにも思いやいてん松島やをしまかいその秋のよの月
藤原為家
藤原定家の嫡男で、御子左流の継承者ともいえる存在です。
秋の夜の月、だなんて文字通り月次な表現ですが
なんとも耳触りがよくて、さすがは家元!とでも言いたくなる風情です。
第47段 おきつ風やや寒からし松風や雄島のうらに千鳥なくなり
源季広
いわゆる受領階級という中流貴族ですが、
おきつ風というフレーズは松島を読んだ和歌のなかでは、他にあまり見ないので印象的です。
第48段 千里まで枝さしかはす松島は何れの木よりなり始めけん
九条基家
摂関家のエリートで、第38段で紹介した九条良平の義理の兄弟でもあります。
本作はこれまで見てきた和歌とはちょっと毛色が違いますね。
政治的には内大臣まで出世しますが、文学的には藤原定家と対立してしまいます。
一方、後鳥羽院が流された隠岐と連絡を密にとり「遠島歌合」を主宰するまでに信頼関係を築いていたようです。
第49段 まつしまやあまのもしほ木それならでこりぬおもひにたつ煙かな
洞院実雄
太政大臣にまでなった西園寺公経の子で、彼自身も左大臣まで出世しているので山階左大臣とも呼称されています。
「あまのもしほ」とは海水を煮詰めて作られた藻塩のことでしょうか。
3、和歌は人を現す
いかがだったでしょうか
悲劇のミカド、順徳院に関連する人物が多く登場した回でした。
恥ずかしながら順徳院自身のイメージは全然ちがったのですが、
非常に技巧的な和歌を作られるのには驚かされました。
しかも院を慕って配流先にもついていく忠臣の和歌にも触れることができました。
あとは大臣クラスまで出世する、エリート公卿がいたり、
御子左流の宗家がいたかと思うと、彼と対立していた文人たちの姿にも思いを馳せることができます。
多様な層の歌人たちの作品をみていくと、それぞれ人柄がよくあらわているかのようです。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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