第1250回 もっと古地図をみたい

1、読書記録278

今回ご紹介するのはこちら。

金田章裕2021『地形で読む日本 都・城・町は、なぜそこにできたのか』日経プレミアムシリーズ

2、図解が捗りそうな

本書では「地図」を読み解き、「地形」をキーワードにして

古代の都がどのように選択されたのか、

中世に山城から平城へと移り変わる様子、

近世の都市の構造などが解説されていきます。

興味深かったところをいくつか抜粋すると

まず古代、天武天皇の都城構想から。

壬申の乱に勝利して飛鳥に都を戻すと、

都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ『日本書紀』

と都は幾つもあって然るべき、という発想を持っていたということ。

最終的には藤原京への遷都に繋がっていくのですが

大阪に難波宮を造ろうとした(実際に一部稼働していた)だけではなく

信濃に使者を遣わして、地形を探らせた、との記述もあるようです。

長野県に都が造られる可能性があったのは初めて知りました。

また陸奥国府であった「多賀城」と筑前国府でもあった「太宰府」の違いについても改めて比較して叙述されると考えさせられます。

立地は多賀城は低い丘陵上、太宰府は平坦な沖積平野上。

多賀城には外郭に築地塀があり、太宰府にはない。

一方で太宰府には大野城という山城があり、非常時にはそこに立て篭もることができるようになっていますが、多賀城にはそのような位置付けをされているものはありませんでした。

この違いの原因は具体的に本書で語られていませんが、

続いて平家政権が拠点をおいた六波羅や鎌倉の地形の記述が続き

平地の方形居館から中世の山城の説明が時系列に沿って語られるところを見ると

時代的な変遷過程の中で模索された構造であったという理解が良いのではないでしょうか。

この辺り図解してくれると理解しやすそうですね。

後半は街道と拠点の関係性について語られています。

近世では各地の城下町の古図が数多く残されているので

堺に博多、長崎、新潟などいくつかの都市の図を詳細に解説していくスタイル。

鹿島研究所出版会『日本の市街古図』東日本編・西日本編からの引用が多いようです。

新書版なので図版は小さくならざるをえないため、細かいところは確認しづらいですが、出典元の本は絶版で古本屋で高価になっています。

一番見やすかった図版は江戸の町で、

この町は何度も大火で市街が変貌を遂げていること、

特に明暦の大火を契機に北条安房守正房が新たな江戸の実測図を作成したことが紹介されています。

正房は戦国時代の関東で覇を唱えた後北条氏の子孫で、

北条氏康のひ孫にあたります。

旗本として幕府に仕え、また小幡景憲から軍学を学び、北条流兵法として成立させます。

その延長線上で正確な測量術の必要性に気づき、そこで学んだ技術を活かして全国から提出された正保の国絵図・城絵図の取りまとめにも関わっていたとのこと。

明暦の大火の頃は大目付として任にあたっていたとのこと。

本書で紹介されているのは日本橋川の河口付近で、一石橋、日本橋、江戸橋が順に架かっているのが確認できます。

図の中央に「此所諸国集舩湊」という文字があり、船が集まる場所だったことがわかります。

中洲状に「石川又四郎」と記された四角い区画がありますが

これは旗本である石川氏が拝領したことから石川島と呼ばれ、

屋敷地にゴミを捨てられやすかったことから禁制がだされたとか

水戸藩が造船所を作ったことから工場として発展したとか

いろいろな歴史があるようです。

他には「舟番所」という文字の下に建物の挿絵が描いてあるのが目立ちます。

大名の屋敷地にも名前が書いてあって眺めてしまうのですが

「松平伊豆守」「松平遠江守」「松平兵部大輔」と松平だらけなので、ちょっと同定するのに考えてしまいますね。

3、もっと地図を見やすく

このように古地図と地形から読み解けることがたくさんある、ということがよくわかりました。

特に江戸は伊達家の屋敷地が時代によって変遷していることもあり

関心は高く持っているのですが、決定的な著作にあたったことはありませんね。

第1章で1594年刊行の「プランシウス世界図」にAquita(秋田)という文字があることが紹介され、土崎湊が西欧にも知られた港湾都市だったことがわかります。

もっと東北地方の地形と古地図に関する話題も期待したいところです。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


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