第783回 歌枕としての松島④

1、第22段から第28段まで

先週に引き続き、

Twitterで毎日呟いている #松島百人一首  を一週間分ご紹介します。

Wikiレベルですが作者の経歴の紹介と

個人的な感想を付け足しています。

2、鎌倉時代初期の歌人たち

第22段

こころあるをじまの海人のたもとかな月やどれとはぬれぬものから

後鳥羽院

政治のことは置いておいて、この連載では自ら刀を打つほどの愛刀家として紹介してきました。

御子左家の歌風に心酔し、自ら歌を詠むのはもちろん、

度々歌合を催し、新古今和歌集の勅撰するにあたっては撰者の一人としても大いに活躍していました。

第23段

松がねのをじまが磯のさよまくらいたくなぬれそあまの袖かは

式子内親王

後白河院の娘で、藤原定家とも深い交流があったとされています。

当初斎宮として賀茂神社に入るも病で退下し、

身内の八条院暲子内親王のもとに身を寄せるも、呪詛の疑いをかけられて退去するなど

実生活では苦労が多かったようですが、現在まで伝わっている400首の和歌のうち、3分の1以上は勅撰集に入れられているなど、高い評価を受けています。

第24段

うらかぜやよさむなるらん松しまやあまのとまやにころも擣つなり

源通親

村上源氏久我流の出身で、平清盛、後白河院、源頼朝ら権力者と良好な関係を築いて立身出世し、内大臣にまで上り詰めます。

子孫は土御門家として繁栄し、

南北朝時代の北畠顕家や明治の岩倉具視などを輩出していきます。

曹洞宗の開祖道元も通親の息子ですね。

第25段

松島や塩くむ海士の秋の袖月は物思ふならひのみかは

鴨長明

賀茂御祖神社(下鴨神社)禰宜の家に生まれますが、

希望していた神職に就くこともできず、源頼朝の歌の師となることを目論むも

中途で挫折するなど、表舞台ではパッとしませんが、

閑居して記した『方丈記』は日本三大随筆と称されますし、

勅撰和歌集には合計25首採録されるなど、文芸で輝きます。


第26段

かぜふけばあまのとまやのあれまくもをじまがいそによするなみかな

藤原有家

藤原定家の御子左家と並んで、歌学の家として栄えた六条藤家の出身で

定家とともに新古今和歌集の撰者となっています。


第27段

秋の夜の月やをじまのあまのはらあけがたちかきおきのつりぶね

藤原家隆

藤原俊成に師事し、晩成型と言われながらも定家と並び称されるほどになります。

特にその作品の多さで知られ、生涯に六万首も詠んだとされています。

そんなにあったら絶対に覚えていられないですよね。

同じ歌をまた詠んじゃうとかなかったんでしょうか。

第28段

みのくや春まつしまのうは霞しはしなこその関路にそ見る

慈円

藤原忠通の子で、九条兼実の弟にあたります。

天台座主として朝廷と幕府の仲介を図るなど政治的な力も発揮しつつ

歌人としても西行法師に弟子入りするなどの逸話も残されています。


3、春は南からやってくる

いかがだったでしょうか。

歌人たちは著名な方が多かった印象です。

歌の内容についてはいつものように

海女や月、苫屋、袖を濡らす、など定番語句が続きます。

個人的には慈円の作品が一番心に残りました。

描かれるのは松島の春、

東北の入り口である勿来の関を読み込んでいることなど

印象深いです。

100首揃ったら季節ごとくらいに個人的なベストを選んでみたいですね。


ぜひ最後までお付き合いください。



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