第1262回 供養に用いるのは石か木か

1、いいねの数だけ論文を Vol.2

ほぼ一月経ってしまいましたがようやく第二弾行ってみます!

前回はこちら


2、板碑と木簡

①田中則和2020「南三陸町・沢内板碑群――室町期の大規模な十三仏石塔婆造立の場――」 『東北学院大学東北文化研究所紀要』52号

東日本大震災後、宮城県南三陸町の中世考古学的研究を精力的に行なっている田中氏。

埋もれていた板碑も含め、推定200基前後、室町期における地域最大の板碑郡の調査報告をまとめられました。

Metashapeを用いた3D画像も活用しながら、肉眼では観察しづらい、碑面に刻まれた文字も復元していきます。

刻まれた「偈」という仏教の経典の分析から松島円福寺に繋がる臨済禅の教線の広がりも指摘されます。


②千葉和弘1998「岩手県南における中世板碑の一側面−平泉町泉屋遺跡第16次発掘調査出土の板碑をめぐりつつ–」岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター 『紀要18』岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター

https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search-article/item/18594?all=%E5%B9%B3%E6%B3%89

少し古い論文なので、出土例は増えているかと思いますが、

十三仏信仰との関わりを考察しながら、全長100㎝を超える13世紀末から14世紀代の板碑と15世紀代の小型板碑の間をつなぐ資料として

泉屋遺跡の出土板碑を位置付けるものです。

追善供養として、初七日を不動明王、二七日は釈迦如来、三七日は文殊菩薩、というように周忌ごとに一尊が割り当てられ、その種子(梵字)を刻んだ板碑を造立する、という習俗があり、

16世紀中葉以降には逆修供養(生前に行う)や日待・月待供養へと転換していく、という見通しが立てられています。

このあたり、隣接する宮城県北地域との比較を行なっていきたいところです。

③藤澤典彦・岩瀬由美2010「石川県金沢市豊穂遺跡出土の木製卒都婆について」『石川県埋蔵文化財情報』第23号

豊穂遺跡は標高2.5m程度の低湿地に立地し、13〜14世紀の集落跡と15〜16世紀の浄土真宗吉藤専光寺跡と推定されています。

溝跡から出土した木製の卒都婆は長さ66.8センチ、幅3.9センチ、暑さは1.5㎝というサイズ。

上部は五輪塔の形に刻まれ、下は先端が尖っていることから、さし立てて遣われたと推定されています。

形態は年代が新しくなると省略が見られるようになることから、本資料はまだ古いものと考えられています。

永和元年(1375)の年代が記され、基準となる好資料です。

また「二百八十四日毎日六本能写者」と記され1日6本ずつ書かれて収められた経文であったことがわかるというのも興味深いものです。

このような「こけら経」はタガでまとめられて奉納されるか、

もしくは水辺で流されたりするパターンが多く

今回の出土例は後者であったと推定されています。

我が町では板状ではなく、立体的、杖のような握り心地の五輪塔形の木製品が出土しており、

金剛杖と呼ばれる、巡礼で使われる杖との関連性を指摘したことがありますが

経文が書かれているという側面を重視すればやはり「こけら経」の性格が強いのかもしれない、と思った次第です。

3、地域差と時間軸

いかがだったでしょうか。

今回もどの論文もオンラインで公開されていますので、

興味を持たれた方はぜひリンク先からダウンロードしてみてください。

自分のフィールドの板碑や木製品の理解に繋がるテーマを選んで読んでいます。

同じ県内、隣の県、遠く離れた地域と場所はさまざまですが、

どこかに共通点はあるのかどうなのか。

まだまだ模索必要がありそうです。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。










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