第714回 陸奥の都にはどんな陶磁器が

1、職場にご恵送シリーズ53

今回ご紹介するのは

宮城県多賀城跡調査研究所資料Ⅴ 多賀城施釉陶磁器

陸奥の国府が置かれた多賀城の調査成果のうち、陶磁器のデータを集めて考察された報告書です。

https://www.thm.pref.miyagi.jp/kenkyusyo/

多賀城跡は昭和35年から93次にわたる学術調査が積み重ねられ、

その成果は昨年総括報告書としてまとめられたばかりです。

724年に大野東人が中心となって創建されてから、762年に藤原朝狩が大改修を行った時期、780年の伊治公呰麻呂の乱で焼かれてからの復興の時期、869年の貞観地震からの復興と大きく4時期の変遷があったことや

外郭という一番外側の区画の様子や内部の土地利用の様子が次第に明らかになってきたところです。

1.調査区配置図

多賀城跡で陶磁器が出土した調査地点の図(報告書より抜粋)

2、集めてみると何がわかる

さてこれまで「漆紙文書」という漆容器の蓋に使われて固まったために残された文書や木簡については「文字資料」という観点から早期から集成作業が行われてすでに報告されていますが、

それに続いて多賀城で出土した陶磁器がまとめられることになったようです。

というのも奈良・平安時代は陶磁器は高級品で、

中国から輸入した青磁・白磁の破片はわずか61点。

主に東海地方で生産されていた灰釉・緑秞陶器は1842点にとどまるからです。

それでも古代の遺跡で京都や太宰府を別にすると貿易陶磁が10点以上出土するのは伊勢神宮の祭祀を司る斎王の居所である斎宮跡(76点)、坂上田村麻呂が802年に築いた対蝦夷の前線基地である胆沢城跡(35点)くらいなので、

地方においては隔絶した地位にあった遺跡であることがわかります。

貿易陶磁の年代は研究が先行し、資料数も多い太宰府のデータを参照して検討されるのですが、

大きく分けて8世紀末ころから10世紀中頃のものと、10世紀後半から11世紀世紀中頃のものとに別れるのですが

多賀城跡で出土したもののうち、ほとんどが前者。

遺跡としてのピークが10世紀以前にあることがここからもわかります。

10世紀といえば京都では摂関政治の確立期、

地方では平将門が討たれたのが940年のこと。

11世期になっても国府としての機能を有していたことがわかっていますし、前九年の役(1051)でも拠点として登場はしていますが

地方の求心力が下がっている時期になるのかもしれません。

ちなみに白磁が31点、青磁が30点と同じくらいの数になっているのは意外な例で、

全国的に見ると青磁の方が圧倒的に多いということがあるようです。

次の時代の東北の中心地である平泉のデータと比較してみると

東北人が白磁好きだったとか、そんなことがわかるかも知れませんね。

3、大事なことは底でわかる

陶磁器のうち、貿易陶磁の話だけで長くなってしまいましたが、

国産の陶器の話も一点だけご紹介すると、

美濃(岐阜県)から尾張・三河(愛知県)、遠江(静岡県)などは当時最先端の生産地で、

多賀城跡から出土したものの大部分もこの中に収まりますが、

近江(滋賀県)や洛北(京都)で焼かれたものも一部含まれていたようです。

1.高台

(図は報告書より抜粋)

碗や皿だと、高台といって底の凸部の形や

胎土という粘土に含まれる砂などの混和物の様子などで区別がなされるようです。

多賀城の外側に国司の館とされている遺構もあって

そこでは陶磁器がある程度出土していますが

それ以外は県内でも陶磁器がまとまって出土する遺跡は限られています。

古代の様相はだいぶ明らかになってきましたが、その後の中世はどうだったのか、

それはいずれ私も考えてみたい課題です。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。




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