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私たちはありのままで最高『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』

高校の卒業式を明日に控えた女子学生のモリーとエイミーは親友同士。二人は高校生活を勉学に費やし、その甲斐あって有名大学への進学を勝ち取った。ところが、遊んでばかりに見えたクラスメートたちも有名企業や一流大学への切符を手にしていることを知った二人は、勉強浸けで封印してきた青春を取り戻すべく、一番のイケてるクラスメートのニックが主催の卒業パーティーに参加すると決心。だが、ほとんど勉強以外での接点を持たなかった二人は、パーティー会場の住所を知らなかった……!!

 本作の日本公式サイトには、「ジョン・ヒューズの新作のようだ」という本国でのレビューが掲載されている。ところが、引き合いに出された青春映画の巨匠が描いた当時の学校のリアルと、イマの実情はかなり様変わりしている。とりわけ新たな発見だったのは、「スクールカースト」の概念の変化であった。

 一昔前なら、主人公のモリー(演:ビーニー・フェルドスタインはジョナ・ヒルの妹!!)とエイミーはいわゆる「イケてない」層に含まれるような容姿をしている。アメリカの学校社会において、頂点に立つのはアメフトスターとチアガールで、スポーツが苦手な文科系はおしなべてイケてない方、「ナード」と呼ばれ時に蔑まれてきた。そうした従来のカーストイメージはすでに崩れ、新しい時代に移行していることを、本作はフィルムに焼き付けた。モリーとエイミーは決してコミュニケーションに難があったり空気が読めない女の子としてでなく、社交性と自己肯定感の高い少女である。また、周りも彼女らの容姿を批判したり、カーストの型にハメて見下したりイジメたりといった描写もない。容姿に付随したステレオタイプを否定するところから、本作は青春映画のフォーマットのアップデートを試みている。

 それだけに留まらず、本作には様々な人種の生徒、様々なジェンダーの考え方や同性愛者が「当たり前」に存在して、誰もそれを奇異として扱わない。多様性という言葉が世界標準になって、どんな生き方も尊重されるようになった今、学生たちは各々の価値基準でつるむ仲間を選び、友情や恋愛関係を育んでいる。例えば、主人公の一人であるエイミーはレズビアンという設定ではあるが、彼女は「自分がレズビアンであること」に悩んだりは一切しない。本作で描かれる彼女の葛藤は「好きな人と上手く喋れない」という普遍的かつ性別に囚われないものであり、マイノリティーであることに彼女自身が苦悩するシーンも、性嗜好によって他者から迫害されるシーンも存在しない。彼女たちはありのままで生きているし、誰もがそれを当たり前だと思っている。これがアメリカの今の若者たちの生きる環境だとすれば、日本はかなり遅れていることになる。

 実のところ、従来のステレオタイプに対する偏見を抱いているのは、主人公のモリーとエイミーだったりする。とくに真面目な生徒会長のモリーは、不真面目でSEXとお酒に狂っていると思っていたクラスメートの女子たちが、自分たちと同等の進路を手に入れている現実を認められなかった。だが、モリーは卒業パーティに参加することで、イケてて遊んでばかりに思えたクラスメートたちの陰の努力や苦悩を知り、心中で見下していた彼ら/彼女らへの解像度がグングン上がっていく。卒業を明日に控えた最後の日に初めて、有象無象に思えた学友が急に「人間」として現れる感覚に、モリーは驚きを隠せない。もっと話せばよかった、歩みよればよかったという後悔を感じながらも、怖いと思い拒絶していた誰かが実は理解しあえる他者であった事実を知り、モリーはかけがえのない学びを得ることになる。

 ここが「画期的」と評される所以だろうか。イケてる組とイケてない組の、あるいはジョックス・クイーンとナード・ゴスの対立が軸になるのではなく、誰もが個人として生きてカーストの型にハマらず、登場人物が勝ち負けで何かを得る物語ではないこと。主人公らを貶めるような悪役が存在しないこと。互いが互いを尊重し生きる学生生活の中で、それでも自己実現や将来に悩む若者たちの姿を、時に爽やかに、時にキツめの下ネタやFワードを交えポップに描き出す。限りなくフェアな視点で撮られた学生たちは誰もが魅力的に映り、エンドロールが流れる頃にはすべてのキャラクターの顔と名前が脳裏をよぎり、彼らとの別れに寂しささえ感じてしまう。

 それにしても、モリーとエイミーのバディは本当に最高だった。この冒頭映像を観てもらえれば、全てが伝わるだろう。登校前にノリノリでダンスを踊り、お互いの服装を褒め合い、「私の親友を悪く言うなんて」とネガティブな言葉を発した相棒をその場で怒鳴る。二人は勉強まっしぐらだった自分たちを恥じていないし、目指すべき夢を持っている。たとえ学校では人気者でなくとも、卑屈になったりはしない。むしろ自信たっぷりな普段の姿勢ゆえに、パーティでも物怖じせずパリピたちとも互角に渡り合える。ちょっとしたノリの掛け違えで、モリーとエイミーは本当はパリピ組とも友達になれていたはずなのだ。

 自信満々でしっかりと「自分らしさ」を最後まで変質させずに走り抜けたモリーとエイミー。彼女たちがイメチェンして、今まで見向きもされなかった男子たちから一目置かれる、というのが従来の青春映画なら、本作は「変わらない」ことが重要な作品だ。鑑賞後に読んだオリヴィア・ワイルド監督の、このお言葉が全てを表しているので引用したい。

「女性の友情を描いた映画を見たかった。女性が男性を追いかけたり、外見を変えたりしない映画をね。本作は冴えない女の子たちがおしゃれをして、人気者になろうとする映画じゃない。これは友情の物語なの」

 モリーとエイミーは、これまで歩んできた学生生活が間違ってたなどとは一切考えない。生き方を変えようともしない。なぜなら、そうする必要がないからだ。ありのままの、今の私たちが最高なんだから、このままでいいじゃない。そんな宣言とも見て取れるラストカットの清々しさに、必ずやノックアウトされるだろう。

 かつての青春映画を観て植え付けられた人種や性へのステレオタイプを一旦はリセットさせ、SNS世代の若者のリアルを投影した本作。多様な価値観が共存する学校という世界で、「いつでもいっしょ」の外の世界を知る主人公たち。ただし、今の関係を抜け出すことを「成長」として肯定していたら、それもステレオタイプに陥っていたかもしれない。それぞれが少しばかりの傷を負いながら他者と触れ合うことを知り、それでも「モリーとエイミー」であり続けてくれるからこそ、本作は愛おしいのである。


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