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ほんとうの「黛冬優子」と向き合え。

 ドーモ、伝書鳩Pだ。おれはかつて心理学を少しかじったことがあって、人間という生き物の複雑怪奇さについては多少の知識があるほうだ。この学問は目の前の他者を知るために、まずは自分を知るという姿勢が大切だ。そしてそこには、自分が思う「わたし」と他人から見られる「わたし」の二つが鏡合わせに存在していて、その違いが興味深くもあり、時に人はそれを怖れたりする。どちらも同じ「わたし」なのに、違う人物のように思えてしまう。会社の同僚や学校の友人の前のわたしと、家族や恋人の前のわたし、双方がまったく同じという人は少ないだろう。

 人は状況や相対する人物によって様々な仮面を使い分け、日常生活を円滑に送る技術に長けており、さながら複数のアカウントを切り替えてSNSを利用するような感覚で、複数の「わたし」を誰もが持ち合わせている。それはごく自然なことで、誰もが成長するにつれ身につけていく処世術のようなものだ。

 という前置きはさておき、今回は黛冬優子の話をする。学のないおまえは名前の漢字を読むことができず、ふわふわした服装のぶりっ子な外面だけで冬優子をわかった気になり、オタサーの姫だなんだとレッテルを貼ってはその内面に1ミリたりとも触れようとしない。そういう態度で人と接し続けた結果、おまえは真に他者を理解し慈しむことができず、孤独なまま余生を過ごすこととなる。孤高の一匹狼と呼べば面目は立つが、手を差し伸べてくれる者のいない空虚な人生は、果たして幸福と呼べるのか?孤独は自ら選び取るものであり、陥るものではないべきだ。そうならないためにも、トップを目指してひた走る彼女のことを憶えて帰ってくれたら幸いだ。名前は「まゆずみ ふゆこ」という。憶えたな??

 とはいえ、冬優子は実装されてから半年も経っておらず(2019年6月現在)、彼女が所属するユニット「ストレイライト」はようやくメンバー3人のpSRが揃ったばかり。しかも、すでにこんな秀逸な記事があって、冬優子のことは語り尽くされているとすら感じる。とくに三楼丸=サンの記事はおれがシャニマスを始めるきっかけになった記事の一つで、冬優子本人に触れる前に読んだこともあり予備知識が備わっている状況だ。されとて、冬優子の魅力を知るためには、やはり自分でプロデュースするのが一番だ。一緒にスターダムを駆けあがっていく相棒を冬優子は求めている。臆することなく、ガラスの靴を差し出してやれ。

 黛冬優子には二つのペルソナがある。アイドルとしての「ふゆ」と、本当の「黛冬優子」だ。ふゆは可愛らしく愛嬌があり、黛冬優子はしたたかで計算高く、そのふたつはOnとOffのようにスイッチが彼女の中に存在する。アイドルモードしての「ふゆ」がOnで「黛冬優子」がOff、その両方と接することができるのは、プロデューサーだけなのだ。ユニットでも一貫して「ふゆ」であることが窺えるサポートアイドルのコミュは、P視点で見るととても興味深い。

 冬優子は、自分がどう見られているかを重視している。アニメのポスターを一生懸命に見つめる冬優子の姿を見たプロデューサーが彼女に声をかけたことをきっかけに冬優子はアイドルになるのだが、後に追加されたpSRのコミュではそのキャラクターと冬優子の類似性が仄めかされる。アニメの中の可愛いキャラクターに憧れ、自分もその可愛いに近づきたいという想いが、彼女の心の中に住み着いている。現時点では公式に明言されていないので想像の範疇に過ぎないが、それは彼女なりの理想の投影なんじゃないかとおれは踏んでいる。可愛くて愛想がよくて、誰からも愛される「わたし」を、冬優子は切望しているのではないか。普段着用しているマスクは、自分の容姿に満足できない気持ちの現れか、あるいは本心を吐き出してしまわないためのセーフティか。

 これは、どんなアイドルになりたいか、という問いに対しての回答。冬優子は、他者が求める自分を演じる癖が染みついてしまっていて、その仮面を「ふゆ」として切り離すことで自分を保ってきた。その根底にあるのは、おそらくは嫌われることへの恐怖。愛されたい、拒絶されたくない、そうして出来上がった「ふゆ」はすでに切り離せないほどに自分の一部になっていて、そうじゃない自分をさらけ出すことが出来ない。求められるロールを演じることは誰もが通る道だが、それが当たり前になって、引き返せなくなったらどうする?常に余所行きの格好でいるのは、気が抜けないということだ。そうした悩みを抱える等身大の少女であることを、おまえは真っ直ぐに受け止めなくてはならない。

 アイドルである以上マスクなんてご法度、冬優子は自分をさらけ出してステージに立たたなくてはならない。とある仕事で取り繕った笑顔を見抜かれた冬優子は、プロデューサーの前で「ふゆ」ではいられなくなってしまう。そのことに傷つき、全てから逃げ出してしまうほどに、冬優子は繊細で壊れやすい。きっと、過去に同じような挫折を経験したのかもしれない。愛されるわたしが維持できなくなって、「そんな人だと思わなかった」と幻滅されてしまうような…。

シャニマス、人生におけるリアルな傷を抉りだしてくる手癖があり、ほんとうにてごわい。

 だからこそプロデューサーにできることは、「ふゆ」と「黛冬優子」のふたりを受け入れることだけだ。取り繕った仮面を捨てありのままの自分で勝負しろ、これも正しい在り方だ。だがシャニマスは一歩先を行く。アイドルとして愛される「ふゆ」を捨てさせるなんてことはせず、むしろ肯定したまま、自分の前では「黛冬優子」でいられるように彼女を受け入れる。アイドルの語源は「偶像」であり、他者が望むままの姿を演じることもまた必要だ。あとは彼女自身がその在り方を受け止め、飾らない自分を吐き出せるだけの余裕を与えてあげればいい。ふたりの「ふゆこ」を見守り、信じること。それだけで、冬優子は大きく羽ばたける翼を手に入れることができる。

 必要なときそばにいる、というのは何よりも心強いものだ。完璧なアイドルとしての自分を確立することが出来た冬優子は、どんどん輝きを増していく。仕事のトラウマを克服し、「ふゆ」としてステージに立つことを心から楽しめるようになっていく。求められる自分を演じ、それを肯定できるのなら、あとは思うままに羽ばたかせてあげればいい。そして、プロデューサーであるおまえ自身が、彼女にとっての羽を休める場所でさえあり続ければいい。たった一人だけ、彼女を「冬優子」と呼び続けたおまえにしかできない仕事だ。

 もう一度繰り返すが、どちらも等しく“まゆずみ ふゆこ”である。偶像と実像、その両方と向き合い、支えてあげるのがおまえの役目だ。たとえW.I.N.Gを制覇したところで、冬優子は満足しない。さらなるアイドルの高みを目指して、どんどん突っ走っていくだろう。そんな冬優子の誰も知らないほんとうに触れられるおまえは、きっと世界一の幸せ者だ。その信頼と絆を武器に、頂点を目指していこう。

 それはそれとして、シャニマス公式は早急にストレイライトのファン感謝祭編とsSR以上を実装すべきである。あと冬優子と他ユニットアイドルとの絡みもイベントで実装し、VS三峰結華で本性バレしたり、アルストロメリアに挟まれて甘えん坊になったりしろ。よろしくお願いします。

このぶんしょうをかいたひと

こっちもよんでほしい

 冬優子、マジで落とし穴というかアリジゴク的にオタクを飲み込んでしまう魅力があり、何かと重ねあわせて語らずにはいられない。しかも「あさふる」なる爆弾がイベントシナリオで投下され、ほとんどのオタクの村が焦土と化した。その最たる例がコレです。

 素晴らしい。最高。ストレイライト初のユニットイベントコミュについてはおれも感想をチマチマ書いては消しを繰り返していたが、おそらくこのnoteが決定版にして至高となるだろう。恥ずかしくなっておれは自分のテキストを削除した。

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